いわゆる“優しさ”というのは、恋人間では特に重要視されるものだと俺は思っている。けれど、その“優しさ”というのはとても不確かなもので、これが正しいというものは存在しないので厄介だ。

 俺は“優しさ”と思ってみても、彼女にそれが俺の“優しさ”だと伝わらないのなら、俺がしていることなんて何の意味もない。俺はただ、俺にはとてももったいない彼女を幸せにしてあげたい、その一心なのだから。彼女が嬉しいと思えないものには、何の意味もない。

 「さん」
 「んっ」

 部活の終わりが早いというのを伝えたところ、それなら放課後にクレープを食べに行きたいという彼女の言葉には、もちろん二つ返事で頷いた。俺の願いというのは至極単純だ。さんを喜ばせてあげたい。これだけである。

 けれど単純なのはその言葉かたちだけで、それを実際に叶えるとなるととても難しいのだ。

 「言ってくれればクリームなんて自分でとれる! ……ここ外だよ。恥ずかしいからやめて」

 「すみません、つい」

 さんは俺の一つ上で――まぁつまり先輩なので、俺が世話を焼こうとするとどうにも不機嫌になってしまう。俺も彼女を不機嫌にさせたいわけでなく、むしろその逆なわけだから控えようとは思っているのだが、元がそういう性分なのかどうも体が先に動いてしまうのだ。

 この相談を木葉さんにしたとき、「毎日毎日あの木兎の世話焼いてんだもんな、そりゃそうなるわ」と他人事と思ってけらけら笑っていたが、この木葉さんとさんは一年のころからずっと同じクラスだそうで、彼女の性格をよく知っている。実を言うとさんを俺に紹介してくれたのも木葉さんなので、あの人のアドバイスは素直に聞き入れるのがベストだ。

 その木葉さん曰く「はなんでもかんでも自分でやりたがる性格。大変そうだと思ってヘタに手ぇ出すと機嫌悪くなるから、うまいこと言って『手伝わせてもらってます』っていう感じにもっていけばいいんだよ。そうすると素直になるから」とのことだが、その“うまいこと”というのがまったく出てこないのでどうにもならない。そのまえに、頭が働くよりも速いスピードで体が動くわけなので、考える猶予もない。

 そういうわけだから、にこにこしながらクレープをかじるさんの唇の端についてしまったクリームを咄嗟に拭ってしまったことに関して、俺は“うまいこと”を言えない。

 「……赤葦くんていつもそう。わたしのこと、なんにもできない女とでも思ってるの?」

 「いえ、そんなことは……。ただ、どうしても気になってしまって……」

 「それってわたしの悪いところがすごく目につくってことでしょ」

 さんはそう言って不本意そうに脚を組んだ。
 慌ててエナメルバッグからジャージを取り出して、さんの膝にかけた。

 「……なに?」
 「……スカートが短いので、脚を組むと――」
 「もうっ! お母さんじゃないんだからさ!」

 俺も決してさんのお母さんになったつもりはないので、それには勢いよく頷きたいところだが、先に言ったように“そういう”性分なのだ。考える余地なく、はっとしたときにはもう遅い。さんの機嫌は悪くなっている。

 これをどうにかしないと、さんを幸せにするどころか真逆の生活を送らせてしまうことになる――そう思って、俺なりに境界線をハッキリさせることでなんとか対処しようと思ったのだが、それも失敗に終わった。
 まず、その基準となるはずの“境界線”が引けなかったのだ。

 さんのこととなると何から何まで気になってしまって、結局どこからどこまでならさんに喜んでもらえる“優しさ”になって、どこから“余計な世話”になるんだかがさっぱりだった。この話をしたときの木葉さんもバカみたいに笑っていたが、そのときも「ようするにさ、のためにっていうより、赤葦がしたいからしてるんだってことが伝わればいいんだよ。好きだからなんでもやってやりたくなるって、そのままストレートに言っちまえばいいだろ。さすがにそれで分かんないほど鈍感にできてねえよ、アイツ」とありがたい、しかも早速使えるアドバイスをもらったのだが――これはまだ実践できずにいる。

 だって、俺がしたいから――さんに幸せになってもらいたいから、俺にできることはなんでもしたい。こんなのって、さんからしたらとても重いんじゃないかと思うと、そんなことを口にする勇気なんてとてもじゃないが湧いてこない。


 女子とは恐ろしい生き物で、俺のクラスでもよく彼氏がどうのという話を聞く。何か参考になればと、素知らぬ顔でたまに意識して話を聞いているのだが、昨日聞いた話には心臓が凍るかと思った。
 要約すると『彼氏と別れた』。これだけなので、まぁこの年頃ならよくある話だと流したところだが、その理由というのが今の俺とさんの関係にドンピシャで、思わず聞き入ってしまった。




 「ねえ〜、聞いて〜。別れたぁ」

 「え? まだ一ヶ月も経ってないじゃん! めっちゃイイ彼氏〜ってあれだけ言ってたのに、どうしたの?」

 「それがさぁ……もうすんごい重いの!!」

 「重いって……あー、なんかいちいち世話焼いてくる的な?」

 「そう! あと重度の心配性でさぁ〜、遊び行くって話すれば『迎えにいこうか』とか『家についたら連絡して』とかそういうレベル。このまま付き合ってたらヤバイと思って。フッツーに怖くない? 何が目的? っていう」

 「早めに別れて正解だわ。そんなのと付き合ってたら息苦しくてしょうがないよね〜。あ、そういえばさ――」


 ヤバイ、もう全部そっくりそのまま心当たりがある……と思った瞬間、気が抜けてうっかり机に頭をぶつけてしまったので、近くにいた友人にとても心配されたがそれどころじゃなかった。

 俺としては“気遣い”で、つまりは“優しさ”からの行動がすべて裏目に出ていて、その俺の行動――いちいち世話を焼く――というのは重い気持ちで、さらに言うとかわいい彼女に何かあったらという不安からの“心配”ですら、相手からすれば“怖い”というのだ。ぜんぶ当てはまってる俺はどうしたらさんと別れずに済むのかっていう話だ。

 こんなピンポイントに俺の悩みの核心を突く話を聞いてしまったら、木葉さんからのアドバイスを実行するなんて自殺行為としか思えなくなった。どう考えても『分かってくれたならよかった。――別れよう』と言われているシーンしか思い浮かばない。けれど、だからといって今のままでいても別れを避けることはできないだろう。

 なんでも、どんな方法でも構わないので、別れるというのを絶対に避ける方法はないものか――。




 「赤葦くん?」

 「っ、はい」

 「どうしたの? むずかしい顔してる。……つまんない? ……あんまり甘いもの、好きじゃないって言ってたよね……。ごめんね」

 「いえ、俺はいいんです。さんと一緒にいられれば、それで」

 さんは何を思ったのか、俺のジャージをぐっと俺の胸に押しつけると、組んでいた脚を素早く解いて脚を揃えた。スカートの裾をぎゅっと握った手が、小刻みに震えている。俯いていて、表情は分からない。
 また機嫌を損ねてしまった。なんと謝ろうかと、さんの顔を覗き込んだところ、俺は驚いた。

 「さん……」
 「やだ……こっちみないでよ、ばか」

 目にはきらきら光るものが浮かんでいて、そこに『驚いています』という顔をした俺が映っている。

 これは……もしや……と思って、素直に「……もしかして、照れてます?」と言うと、さんは膝に顔を埋めた。それから呻くように「赤葦くんてすぐそうやって甘やかすから、家以外で会うといつも周り気にしちゃって大変なんだからね……」と言った。髪から覗いている耳が真っ赤だ。

 「……俺、すごく世話焼きな性分みたいなんです」

 「……そんなこと知ってる」

 「俺はさんに幸せになってもらいたいといつも思っているので、いつもつい体が先に動くんです」

 「もうやめて……」

 「さんが嫌だって言うなら、もちろんやめます。……すごく、時間がかかるかもしれないですけど、どうにかします。なので――」

 ――別れるというのだけは、勘弁してもらえませんか。

 俺のその言葉を聞くと、さんがばっと顔を持ち上げた。俺の目にはきっと、『驚いています』という顔のさんが映っているに違いない。

 すると今度は、潤んでいた目がますますきらきら光って、光のかたまりがつぅっと白い頬を伝った。
 俺がぎょっとする間もなく、さんのか細い声は耳に届いた。

 「……やだ」
 「え……」

 俺のブレザーを弱々しく握って、さんは俺を見上げた。

 「けいじくんが甘やかしてくれなくなったら、やだ」

 正直くらっとしてしまって困った。何が起きてるんだと思ったし、もしかしたら夢かもしれないので、思いっきり両頬にビンタかましたほうがいいんじゃないかと。だってそうでもしなければ、俺の頭はどうかしてしまったんだとしか思えない。

 俺に世話を焼かれることを何より嫌っているはずのさんが、今なんと言った? 俺に甘やかしてもらえなかったら嫌だ、だって?

 俺にだけ都合のいい妄想なのではないかと思うのは必然だろう。どうしてかって、さんは今までそんな素振りは一切見せなかったし、それどころか俺のすることなすこと、すべてに対して嫌な顔をしたことしかないのだから。
 それが、今、なんて?

 「……すみません、もう一度言ってもらってもいいですか」
 「やだ! 二回も言えない! ここ外だよ?!」

 外でそんなに声を張り上げるさんのほうもどうかと思うが、それはさすがに飲み込んだ。そういう余計なことを言って彼女の機嫌を損ねるなんてこと、あんな言葉を聞いたあとではとてもじゃないができやしない。
 すると俺はぴんときてしまった。

 「“外”ではだめなんですよね。……なら、家ならいいんですか?」

 さんは顔を真っ赤にして、「そういうつもりで言ったんじゃないっ!」と唇をへの字に曲げてしまった。あぁ、機嫌だけは損ねまいと思ったばかりだったのに。
 それでも、あまり悪い反応でもないな、と思ったので、ここは押しどころなのかもしれない。

 木葉さんの言っていた通り、このひとはきっと『自分だけでなんとでもできる』と思っているのだろう。けれどそういうひとに限って、寂しがりで、どうしようもなく弱い部分があるのだというのを、俺は知っている。だからこそ、さんは俺を“けいじくん”だなんて(いつもの彼女ならありえない)呼んで、俺の気を引こうとしていたのだ。

 今までの俺ならとんでもなくうろたえて、どうやって彼女の機嫌を直せるのか、どうしたら、どうしたら――とそればかりだったが、さんだってただの女の子で、でもそれを理由にして甘えること知らないだけのひとなのだ。
 そこへ俺みたいなのが現れてしまったので、きっとどうすればいいのか分からなかっただけの話だろう。何せ俺は、さんのことが好きでたまらないから、あれこれと世話焼きたくて仕方ないのだ。

 実は難儀な性分をしているのは俺でなく――いいや、俺も、彼女のほうも、両方なのかもしれない。

 「さん、帰りましょう」

 「え、」

 「今日は俺の家でいいですか?」

 「っえ、な、なに、急に……」

 「ここがだめなら、あなたがいいと言ってくれるところへ行きたいと言っているんです」
 
 何それ、とさんは茫然、というような顔をしたけれど、俺が続けた「今どうしようもなく、あなたのことを甘やかしたくって仕方ないんです」という言葉に、やっぱり顔を真っ赤に染めて「……やだって、言ったのに……」と眉間に皺を寄せた。

 けれど、今となっては何も怖くなんかない。
むしろ、前よりずぅっとかわいく見えてしまって困った。

 「俺も嫌です。でも、俺もさんに付き合いましたから。今度は俺のわがままに付き合ってください」

 木葉さんのアドバイス通りに、頼み込むようなかたちで言ってみると、さんはほんの少しだけ口元を緩めて、「なら付き合ってあげる」と笑った。
 一緒に過ごしてきた時間が俺なんかよりもずっと長いのだから当然のことだろうが、そのアドバイス通りの反応を見せたさんに、少しだけむっとしてしまったのは心の内に秘めておこう。

 今はそんなことより、やっぱり彼女を甘やかしたくて仕方ないのだ。

 「さん、手、出してください」
 「……ん」

 いつもは手を繋ぐのすら渋るのに、不思議なものだ。
 きっと一度心を許してしまうと――いや、今までだってそのはずだが――どこまでも一途に人を信頼できる人なんだろう。俺は多分、彼女の信頼に足りる男なんだと認められているようでほっとした。いや、付き合うことになってから今まで、そうでなければ立場も何もあったもんじゃないのだが。

 素直じゃないこの人が、ついついあまのじゃくになってしまうというなら、俺だけはそんなつまらないもの、いつでも取っ払ってあげよう。
 俺はどこまでも世話焼きな性分なので、さんのようなひとはどうあっても放っておけないのだ。

 それに加えて心底このひとが好きなわけだから、自分のできるうる限りのすべての面倒を見てあげよう。

 「……赤葦くん、なんかへんなこと考えてる?」

 「……“へんなこと”……? いえ、考えてませんけど……何か考えているような顔してましたか?」

 「ううん、ならいいの」

 もう決めた。

 このひとがこの先何を言っても何をしても、そんなものは全部聞き流してしまって、俺の好きなようにしてやろう。
 本当はきっと、このひとは誰よりも甘えたがりなのだから。俺だけは、このひとをいつだって甘やかしてあげよう。

 一度決心すると、もう迷いも不安もどこかへいってしまった。俺は一体、何をあんなに考え込んでいたんだろう。何も難しいことなんてなかったというのに、俺は自分で問題――ともいえないようなことを、大げさに騒ぎ立てていただけなのだ。

 すると肩の荷がすぅっと下りて、心の中の澱みも、頭をぐらぐら揺らすものも自然と消えていった。
 何もかもが解決した途端、俺はふと口元が緩んでしまっていることに気づいた。

 明日から――いいや、この後からのことを考えて、俺はただ上機嫌に彼女の手を引くのだった。






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