私じゃあだめ。及川くんのこと、守ってあげられない。

 ちゃんはそう言うと、淡く光る外灯の円から深い闇の中へと消えてしまった。


 俺とちゃんとの間には、良くも悪くも何もなかった。ただ、ゼロ距離だった。
お互いがお互いを、他の誰より近い存在だと認めていたから。

 俺にはいつだって恋人がいて、ちゃんにも時々はそういう男がいた。だからって俺たちは離れることなどしなかった。そのうち、「私とさんどっちが大切なの」「お前は及川しか大事じゃないんだな」おんなじようなセリフ、おんなじようなタイミングで、いつも二人してフラれた。

 岩ちゃんは、「なんだってお前ら付き合わないんだよ」と俺たちに何度も聞いてきた。
俺たちも何度も同じ答えを返した。「そういうんじゃないから」と。

 実際そうだった。俺たちはそういうんじゃなかった。少なくともちゃんにとっては、俺は“特別仲のいい男友達”とか“なんでも言い合える親友”とかそういうので、俺はそれをよく分かっていた。だから今までずっと大人しくしてきたのだ。ちゃんの望む“俺”でいれば、このままずっと離れることはないという自信があった。でも、いざ俺が“そういう”意味でそばにいてほしいと頼んだら、ちゃんは絶対に「いいよ」と言うだろう。その自信もあった。俺たちはお互いゼロ距離のところにいて、他の誰よりお互いのことを知っているのだから当然そうだと思っていた。だけどどうだろう。

 ちゃんは俺を残して、行ってしまった。




 「フラれた」

 部室に残っているのは、岩ちゃんと俺、マッキーと松つんの四人だった。今日はハードな内容だったので、みんな黙々と着替えている。その中で俺がぽつりと零した言葉は、大きく響いた。ぴく、とそれぞれ反応が見れた。初めに口を開いたのは、やっぱり岩ちゃんだった。

 「いつものことだろ。お前いい加減、と付き合え」
 「ちゃんにフラれたの」
 「……は?」

 まぁこんな感じだろうなと当たりを付けていた通り、岩ちゃんはぽかんとした。
俺はわざと深刻そうな溜息をついて、こう言った。

 「……好きなヤツ、いんのかな。どう思う?」

 マッキーが答えた。

 「さんどう考えても特別扱いしてんじゃん、及川のコト。お前以上のヤツいると思えないケドね」

 それは当然だと思ったけれど、もちろん口には出さなかった。
俺はちゃんのことが大好きで、この恋を叶えたいと願っているだけなのだ。
 へらっと笑って「でもフラれちゃった」と足元へ視線を落とす。

 「……めんどくせえな。に直接聞いてくりゃいいだろうが」
 「及川が岩泉みたいな男前だったらできてたと思う」

 岩ちゃんと松つんが会話を続けようとしているので、俺は次の行動へ移ることにした。


 しっかり目に焼き付けて、耳から離さずにおいてもらわなければならないのだ。
ちゃんへの純粋な恋心のために苦しむ、可哀相な俺の姿を、声を。


 「もう帰る。ちゃん待ってるし」


 何をバカな、という顔を三人揃ってした。
同情いっぱいという感じの声音で、マッキーが言う。

 「……待ってないっしょ」
 「待ってるよ。だって俺もちゃんも、一緒に帰らないって言ってないもん」

 俺のこの言葉を聞いて、みんな俺に何か言いたげだった。背を向けてから薄く笑う。その表情がどんなものであるか、直接見なくたって分かった。誰も気づいていない。ちゃんだったらきっと、分かってくれたのに。いや、これはきっと分からないだろうなぁ。だってそんな素振り、俺は見せる気なんてこれっぽっちもないから。

 それじゃあ、と俺はさっさと部室を出た。


 部室棟の前に、ちゃんは立っていた。いくら危ないからと言っても聞かずに、いつも校門付近で待ってたくせに。これがどういうことだか分からない振りもできないことはないけれど、つまらないことだと考え直した。

 「ちゃん!」
 「お疲れさま。今日はどうだった?」
 「うん! 頑張ったよ」
 「そう」

 それっきり会話はなかった。ただ黙々と歩く。ちゃんはずっと何か言いたげにしているけど、俺は「どうしたの?」なんて声をかけたりしない。それじゃあダメなのだ。いつもならもちろんそう声をかけたけれど、今日は――今回はそんなことしたらいけない。俺が思う通りに事を進めるためには。でも、そろそろかな、と沈黙を破った。


 「……いやだよ」


 俺のそのたった一言は、ちゃんに全てを伝えただろう。その証拠に彼女は、「何も言ってない」と言った。それでも、俺は言葉を続けた。そうしないと、今回はダメなのだから。

 「もうこういうの終わりにしようとか、“ただの”友達になろうとか言う気だろ」

 ちゃんは立ち止まって、俺の目を真っ直ぐ正面から見つめる。何を言おうとしているのか、その目だけで分かるよ。そう言いたかったけれど、ぐっと堪える。もちろん、それじゃあダメだからだ。
 ちゃんは俺の目から視線を逸らさないまま、ハッキリとした口調で言った。

 「……及川くんは私にこだわりすぎなの。だから彼女とも続かないんだよ」

 俺は思わず笑ってしまいそうになったけれど、神妙な顔を作ってそれらしいことを言った。

 「だってどんな子と付き合っても、ちゃん以上の子なんていないんだもん。ちゃんだってそうでしょ?」

 すると彼女は傷ついたような顔で――実際そうだろうけれど――「そんなことないよ」と言うと、俯いてしまった。もう少し、その瞳に映っていたかったのに。でも、俺には分かっちゃうんだよ。今、ちゃんがどんな気持ちでいるか。だから俺は悲壮感たっぷりの声で、悲しいんだって全身で訴えるようにこのシーンを演出することができるのだ。

 「及川くんより大事な人、いるよ。いつだってそうだった」
 「……うそだ」

 今にも泣き出しそうな声。なかなか上手いもんだな、と俺は思った。もしかしたら俺、役者に向いてるんじゃないかと思うほどには。これは大層同情を誘うだろうなぁ。その証拠に、ちゃんの声も震えた。

 「うそじゃない。……及川くん、私じゃあだめなんだよ。及川くんを一番にしてあげられないの。及川くんのこと、守ってあげられないの。だから私にこだわるのはやめて、及川くんを一番にしてくれる人と――」

 一緒にいなくちゃ。たぶん、ちゃんはそう続けるはずだったろう。
俺はそれを遮って、やっぱり“かわいそう”な調子で呟いた。

 「やだよ……」

 そして言うのだ。

 「ちゃん、俺のこと捨てらんないでしょ? だから何回だって俺のところに戻ってきてくれたんでしょ? 好きなヤツいても、俺が一番じゃなくても、でも俺のそばにいてくれるって知ってるよ」

 するとちゃんは、また俺の目に視線を寄こした。真っ直ぐだ。どこまでも。でも、そういう真っ直ぐさがちゃんの長所で――短所なんだよ。自分では気づいていないだろうし、俺もわざわざ教えなかった。だってだからこそ彼女は俺のそばにいたし――それはこれからも変わらないのだから。
 ちゃんは困ったような様子で――けれど神妙な顔つきで言った。

 「……こうして待つことも、試合を観に行くことももうしない。及川くんが何をしてもどうなっても、もう助けてあげられない。守ってもあげられない。それは私の役目じゃないから。及川くんがどう思っても、周りがどう思っても、私の考えは変わらないよ。だから、もう私に執着するのはやめて。及川くんが辛くなるだけだよ」

 ちゃんは俺のことをよく分かっている。
でも、俺は少しの隙も見せるつもりはない。
そうしなくっちゃいけないのだ。

 ――今回は。

またもそう続けたいところだけれど、しばらくの間は仕方ない。少しの隙も見せず、ちゃんが“知っている”俺でいなければ。彼女の“親友”でいるべく、俺は笑った。もちろん、そういった演出を施して。

 「……いいよ、分かった。ちゃん、そうしたいんでしょ? もう俺を待たなくていいし、試合も観にこなくっていいよ。……暗いから送ってあげたいけど……ここでバイバイしよ。だって、つらいもん」

 つらいもん。ちゃんは一度口を開いたけど、何も言わなかった。
でも、それがどういうことだか俺には分かる。


 ねえ、ちゃん。俺はきっと、君よりずぅっと君を知ってるよ。


 それからしばらく――それはどのくらいの時間だったろうか。沈黙は続いた。
これがすべての答えだと俺は知っているけれど、もちろんそんなことは言わない。
 及川くん。ちゃんのその声は、静かな住宅街に大きく響いたような気がした。

 「……さようなら」

 バイバイ、また明日ね。いつもそう交わしていたのに、今日は――これは、きっとちゃんなりの決別の言葉なんだろう――さようなら、だそうだ。さようなら。でもそれすら予想していたことだと知ったとき、どんな顔をする? 俺は笑った。

 「うん。……ちゃん、バイバイ」

 そう、これはいつもと変わらない。また明日会える、一時のさようならだ。




 「……お前、どうした」

 岩ちゃんってば案外心配性――いや、仲間思いだから。
そして何より、昨日の俺の様子を知っているからこそこんな風に言葉をかけてくれる。

 「どうもしてないよ」

 へらっと笑って短く返した俺を見て、岩ちゃんは眉間に深いシワを刻んだ。
 大丈夫だよ。本当にどうもしてないんだ。岩ちゃんの様子にそう答えたかったけれど、まだダメだ。俺はひっそり笑って、でもそれを悟られないようにするのだ。まだだ。まだ終わっていない。

 「……のこと、気にしてんのか」

 「……ちゃん、もう俺のこと待ってくれないし、試合も観に来てくれないんだって。……もう、俺のことなんか――」


 あと、少しだよ、ちゃん。




 水底から浮上するように目を覚ました。湿布のにおいと白い天井、クリーム色のカーテン。保健室だ。保健の先生と岩ちゃんの声がする。及川、と何度か俺の名前が出た。こちらへ誰かの気配が近づいてくる。

 シャッとカーテンが引かれた。岩ちゃんは静かな表情だ。

 「倒れたの、分かってるか」
 「うん、みたいだね」
 「貧血だと」
 「そう」

 なんでもハッキリ言う岩ちゃんにしては珍しく、躊躇うように口を開いた。
大丈夫だよ、俺、全部分かってるから。

 岩ちゃんにはやっぱり全部教えてしまいたかったけど、教えてしまったら意味がない。それに何より、俺のことを許してはくれないだろう。たとえそうだったとしても俺はやめる気なんて一切ないけれど。まぁどうだっていいことだ。俺は誰にもこのことを打ち明けはしない。あぁ、でもいつか、ちゃんには伝えるときがくるかもしれない。ただ、それだってずぅっと先のことだ。どうだっていい。俺の望みが叶うまであと少しなのだ。それ以外のことは、今はどうだっていい。

 しばらく、岩ちゃんと――“かわいそう”な俺は会話を続けた。
 それから岩ちゃんが、やっぱり躊躇うようにして言った。

 「……に、すぐ行ってやってくれって頼んだ」
 「うん」
 「行けないって断られた」
 「……俺はちゃんの一番じゃないし、もう俺のことは助けられないし守れないって、言ってたから」
 「及川、お前――」

 来た。


 「及川くんどうしてますかっ? 倒れたって聞いて……」


 ほらね、やっぱり。

 驚いた様子でちゃんの方へ視線をやった岩ちゃんが、「! お前なんで……」と声を上げた。保健室なのに大きい声出したりして、ダメだよ。俺はくすっと笑いそうになった。もちろん、そんなヘマはしない。

だってまだなんだ。今回は――ちょっとの隙も見せたらダメなんだもん。いくら岩ちゃん相手でも。

 それでも声を上げて笑ってしまいたかった俺は、背を向けている岩ちゃん、切なそうに顔を歪めているちゃんに気づかれないよう、笑った。ひっそり。誰も、気づきやしない。ちゃんの声音は、今にも泣いてしまうんじゃないかというものだった。だと思った。だってちゃんてそういう子だ。俺は知っている。

 ちゃんが岩ちゃんの横をすり抜けて、俺のそばまでやってきた。それから岩ちゃんを振り返って、「さっきはごめんね、岩泉くん」と早口に言うと、気まずそうに視線をさまよわせた。

 「……及川くん、大丈夫なの? 倒れるなんて……」

 さぁ、いよいよ仕上げだ。

 「ちゃんが来てくれたから、もうだいじょうぶ。大丈夫だよ」

 きっと青い顔をしているだろう俺がへらっと笑ってみせると、岩ちゃんは「……教室戻る」と短く言ってそのまま続けた。

 「……。後のこと、頼んでいいか?」

 岩ちゃんへその瞳を向けているちゃんの横顔は何か言いた気で、でもそんなこと岩ちゃんに分かるわけがない。きっと――いいや、絶対。これは俺以外気づくことなんかできやしない。

 「うん。お昼休み終わるまで、私が付いてる」
 「頼んだ」

 岩ちゃんが閉めた扉の音に、俺はやっぱりひっそりと笑った。


 「朝から具合悪かったの?」

 そう言うちゃんの声は、いつも通りだった。
それからベッドのそばの丸イスに腰掛けて、俺の言葉を待っている。

 「……ううん。昨日の夜から」

 これに嘘はない。正直に答えただけなのに、ちゃんは傷ついたような顔をして俯いた。
それから気遣わしげに「……お昼は?」と言って、俺の方へゆっくり視線を持ってきた。

 「まだ」
 「……何か買ってこようか?」
 「いらない。ねえ、ちゃん。……そばにいて」
 「……うん」

 ちゃんが思ってること、言いたいこと、俺には手に取るように全部分かる。
混乱しているに違いない。どうしてこんなことしてるんだろうって。
 「さんがいるなら大丈夫ね。職員室に用があるから」と、先生は部屋を出ていった。


 ちゃんは俺の目から視線を逸らさず、言った。
昨日と一緒の、決別の覚悟アリって感じだ。

 「……もう行くね」


 ちゃん、ねえ、俺はね、全部分かってるんだよ。


 「先生もすぐ戻ってくると思うし、大人しくしてるんだよ。具合良くなるまでは寝かせてもらって、できるなら部活もお休みしたほうがいいよ。それから――あ……ごめんなさい……。……私、もう戻るね。及川くん、お大事に」

 ちゃんはしまったというような、でもこの状況では……。そんな風な、感情ごちゃまぜって具合の様子を見せた。その反応は間違ってないよ。ちゃんにとっては。でもこれも、俺は教えてあげやしない。

 「待って」

 俺の声に、ちゃんの肩がびくりと震えた。小動物みたいだ。危険を察知した、小動物。頭の中ですら誰にも悟られはしまいという顔で笑う俺がいる。これで、終わりだ。

 「離れるって、言わないで。いちばんにして。助けてもらわなくちゃ、やっぱりだめだよ。ちゃんに守ってもらわないと、俺、だめだよ。お願い、そばにいて。ちゃん、おねがい」

 止めの一言なんて必要ないかな。俺はそう思ったけれど、念のため。
ちゃんの細い腕を弱々しく掴んで、俺は絞り出すように言った。

 「おねがい、いかないで」

 こんな細腕、いざとなれば簡単に折ってしまえるし、俺はそうしたって構わないと思っている。そんな俺をちゃんは知らない。俺はいつだってそういうものを隠してきたし、これからもそのつもりだ。
 ちゃんは黙って、浮かしていた腰を戻した。

 「ちゃん」

 俺の呼びかけに、ちゃんは小さく吐息を漏らした。甘い吐息だ。俺のものだ。

 「……うん。そばにいるから」

 ちゃんは俺の手をそっと外すと、俺の手のひらをきゅっと握った。
決して強い力ではないけれど、俺にはそれで充分だ。

 「もう、離れるなんて、言わないでね」

 完成だ。俺は小さな手のひらに同じだけの力を込めて、それから俯いた。ひっそり、笑う。いや、これはにんまりって感じかもしれない。でも、ちゃんは気づかない。これから先もずぅっと気づかないし、知りえない。もしこのことを知るときがきたとして、もう逃げられやしないよ。

 あぁ、よかった。これでもう、なんの心配もしなくて済む。

 俺は、優しいちゃんがだいすき。俺のことをよーく知ってるちゃんが、だいすき。でも君は、肝心なことはなぁんにも知らない。いっそ本当に小動物みたいに、本能で危険を察知できたらよかったのにね。だけど、もう遅いよ。


 だからほら、ぜーんぶ俺の思い通り。






画像:HELIUM