![]() 「ちゃん、もう行くの?」 ベッドサイドのオレンジの光が、彼女の動きで影を作った。時計を確認するよりも前に、俺は口を開いた。そうでなければ、この人は知らん顔してさっさとこの部屋を出ていくだろうから。出会ったころよりこれは常だった。昨日の晩は嫌だって泣き叫んだって、こうならないようにと抱きつぶしてやったのに。真っ白い裸体を見せつけるように晒して、ちゃんはにこっと笑った。俺よりずっと年上だけど、とてもそうは見えない。かわいい“女の子”って容姿だ。 「“もう”って? わたしのこのあとの予定でも知りたいの?」 いいや、聞かなくても俺、知ってるよ。ちゃん、これから“帰る”んだよね。どこの誰だかは知らないけれど、俺以外の他の男のところに。それも、誰より“特別”な男のところ。今度のお休みにはずっと一緒にいてあげる、なんて自分から言い出したくせに。 そう言ってしまうのは簡単だ。でも俺は賢い子だ。口にはしない。俺は賢い子で、真剣にちゃんのことが好きだから騙されてやるのだ。俺がお馬鹿な高校生だったなら、「行かないで!」「俺を一人ぼっちにしてどこ行くの?」なんてきゃんきゃん吠えたり、もしかしたら泣いてみせたりするかもしれない。そうしたらちゃんは面倒臭いって顔をして、二度と俺の相手をしてくれなくなるだろう。それが分かっているから、俺はずぅっと歳の離れたちゃんの“男”でいられるのだ。 さて、なんて言ったら俺と一緒にいてくれるかな。久しぶりの土日オフなのだから、恋人同士みたいにデートしてみたい。いいや、この部屋からずぅっと出ずにいたっていい。とにかく俺は、貴重な休みを誰よりこの人と過ごしたい。まだ温もりの残るベッドに横たわったまま、枕をクッションに片肘で頬杖をつく。 「今日は俺といる約束だったのにね」 「……“約束”? アハハ、かわいいこと言うね」 ちゃんは「気に入らない」と言う童顔が綻ぶところは、ほんとうにかわいい。そこら辺の“女の子”と変わらない。でも、そこら辺の女の子とは違う。ちゃんは俺が唯一心を許す、大人の“女性”だ。この人の腕の中で、この人の胸に顔を埋めて眠る日は嫌なことなんて全部どっかへ飛んでいく。嫌なことなんてなくなって、この人と二人きりで部屋に閉じこもっている間は、まるで俺とちゃんだけの世界みたいで心地いい。誰も入ってこれない、二人だけの世界だ。俺はずっとここにいたい。 「……針千本、呑みたいの?」 俺がそう言っている間にも、ちゃんはするする表へ出る支度を進めている。大胆にスリットの入ったスカートに足を入れたのを見て、昨日の夜を思い出す。それから、こんな時間にでも出ないと悪目立ちするもんね、と思った。まだ始発も出てないだろう。外にいるのはきっと何かしらの理由を抱えた人だけ。ちゃんみたいに。 ちゃんは人差し指を唇に添えて考えるような素振りを見せると、「んん、行く先は地獄かぁ。まぁ悪くないかな」なんて言った。この人は自分が地獄行きだなんてちっとも思っちゃいないだろうに。そうじゃなくちゃ、俺とこんなにも不道徳なことを楽しんでいるはずがない。 「地獄の番人とかでも誑かしそうだもんね、ちゃんて」 俺がそう言うと、ちゃんは一瞬眉間に皺を寄せたけれど、なんてことないという顔をした。それからにこっと笑って、「やぁね、子供がそんな言葉使うんじゃないわよ」と言った。笑われているな、と思った。心の中で大笑いしている。バカな子ね、って。 ちゃんはざっと髪をまとめて、化粧台に座ってメイクを始めた。かわいいお顔が“よそ行き”、あるいは“本物”に変っていく。その様を俺は黙って見つめていたけれど、口紅を引き始めたところで口を開いた。 「ちゃんが思ってるほど子供じゃないかもよ」 「背伸びするのもかわいいけど、だからって釣り合うわけじゃないのよ、徹クン」 またね、とちゃんは簡単に去っていた。次があるかは分からない「またね」だ。ちゃんの場合はそうである。俺はそうして捨てられてきた人たちを知っている。だから賢い。 ちゃんに捨てられてきた人たちは様々だ。男が圧倒的多数ではあったけど、中には女の人もいた。おじさんから大学生までは遊んできたけど、高校生は徹クンが初めてよ、という言葉を信じれば俺はちゃんの“男”の中で、ちょっと特別だ。なんたって“若い”。バレちゃったら犯罪だぁ〜、やだぁ、どうしよう? なんて時々ちゃんは笑う。大抵、俺とセックスする前だ。 俺がこの関係を誰にも漏らさないと分かっていて、俺が自分に本気だというのを確信しているセリフだ。なんて意地悪で卑しくって汚い人だろう。なんてだらしなくていやらしい人なんだろう。何度となくそう思っても、どっぷりハマってどれだけ足掻いても抜け出せない。こんなのなんにもならない。突き進んでやろうと思ったところで、いわゆる“茨の道”ってやつだ。俺は怖い。この関係が怖い。ちゃんはそれも見抜いている。だからいつも簡単に、名残惜しそうにすることもなく帰っていく。俺の知らないどこかへ。その俺が知らない“どこか”で、ちゃんは俺の知らない誰かのために、掃除をして、洗濯をして、料理をするのだ。 ちゃんの「好き」や「愛してる」はどんな男にもどんな女の人にも与えられるけど、その言葉が感情を持つのはその“誰か”に囁くときだけだ。その“誰か”が俺であればどんなによかっただろう。でも、無理だ。出会うのが遅かったし、何より俺は“若い”だけで何も持っていない。そしてちゃんが俺に求めているのは、その“若さ”だけだ。 俺がちゃんとこういう、不倫関係になったのには特に理由はない。俺がちゃんを好きになってしまって、たまたま――幸いにも?――ちゃんがそういうことが好きで、散々に勝手をしてる人だったというだけで始まった。出会ったのも“出会い”と言うほどのものでなく、道に迷っていたちゃんに俺が声をかけたというだけだ。困ってる様子でいて、かわいい“女の子”だったから軽い気持ちで声をかけた。ちなみにこのときも、ちゃんは俺の知らない誰か――俺と同じ立場にいる性別も分からない人のところへ行く途中だった。 俺だってその気になれば相手はいくらでも見つかるだろう。俺の年頃に合っていて、俺の好みに合う正真正銘の“女の子”が。でも、でも俺はちゃんがいい。もう他の“誰か”のものでも、今のまま――ただちょっと遊んであげようかなって思われてるだけの不倫相手でも構わない。俺だけじゃなく、他にもそんな相手がわんさかいるとしたって。 若い不倫相手としては、ちゃんの“男”としては賢くても、俺は馬鹿だ。馬鹿だ。どんなにちゃんを好きでも、愛してるなんて言ってみても、俺には何もない。薄っぺらなガキの「好き」や「愛してる」なんて、ちゃんは求めてやしない。ただちょっとした刺激が欲しいだけなのだ。そんな相手に“若い”だけの俺ができるのは、面倒がられないように賢くいるだけで他にはない。あぁ、あと刺激ってやつを差し出すこと。ちゃんはきっと楽しいと思えることなら、なんだっていいと思っている。別に俺やその他と寝ることじゃなくたって。でもたまたまこういうカタチを経験したから、これを自分の“日常”に与える刺激としているだけで。だからいくら俺が賢くいようと努力しても、ちゃんが飽きてしまったらこの関係はあっさり終わることだろう。ひどい話だ。俺はもう、この泥沼から抜け出すことなんてできないのに。 それはなんてことない、“いつも”と変わらない日だった。俺にとっては待ちに待った、“特別な日”。ちゃんと二人っきり、誰にも邪魔されないで過ごせる日。いつもピンク色、あるいは紫色にギラギラ――いや、ほんの少しのぼうっとした灯りの中でひっそり存在するホテルで、いけないコトを楽しむ日。俺がその“いつも”を期待していたところ、俺の少し先を歩くちゃんが「徹クン」と名前を呼んできたので、素直に「なぁに」と返事をした。するとちゃんはなんてことないように、「今夜はうち、おいでよ」と言った。“いつも”とは違った道を行っているのは分かっていたけれど、行き着くところの想像なんてしていなかった俺は、驚いたのと同時に恐怖で震えた。賢くいたつもりだったけれど、知らないうちに何かしてしまったというのだろうか。それとももうこんなことには飽きてしまったから、終わりにするために俺を利用するのか。でも俺は、「……いいの?」と言ってしまった。俺の知らない“誰か”を、見てみたかった。俺が欲しくってたまらないちゃんが、人を簡単に捨てるちゃんが、唯一大事にしているヤツを。いいの? 俺の言葉に、ちゃんはやっぱりなんてことない顔をして――いや、言葉通りの顔をした。 「どうして?」 「俺はいいけど、ちゃんの都合だよ。マズイでしょ」 そう、俺はいざとなれば“被害者”だ。でも、目の前で“女の子”みたいに笑うこの人はどうなる? もしかしたら俺の知らないちゃんが唯一愛する“誰か”に罵られたり、殴られたりだってするかもしれない。もちろんそうなれば俺は彼女を庇うけれど、それが余計に相手を激昂させて酷いことになるかもしれない。いや、酷いのはもちろんこちらなのだけど。 色んな感情でぐるぐる忙しない俺の様子に気づいたのか、ちゃんはほんの少し笑った。俺の頭の中を見抜いてるかのように。 「誰もいないわよ。徹クン“いい子”だから、いいかなって。嫌ならいつも通りホテルでいいけど」 「……ううん。ちゃんちがいいな」 もしかしたら、関係の切りどきってヤツがちゃんにとって“今日”なのかもしれない。だって家に不倫相手を呼ぶなんてどうかしてる。いや、共犯者である俺が言えたことじゃないけれど、不倫なんてしてる時点でどうかしてるのに、この人はどこまでも勝手で酷い人だ。でも、「じゃあ今晩はそうしましょ。ふふ、素敵な夜になりそうで楽しい」なんて“女の子”みたいに笑う顔を見ると、やっぱり俺はこの茨が生い茂る泥沼から抜け出せやしないと思い知らされる。 けれど、今回は事が事だ。これが切りどきでないとして、ちゃんが自ら家に俺を招くのなら、旦那サンと鉢合わせることはないんだろう。けれど、それにしたって危なすぎるとは思わないのか? いざとなれば俺は被害者でいられるといくら思っても、俺はこの人をきっと庇って、痛い目をみるに違いない。 「……まだ早いんじゃない? そのセリフ。“もしかしたら”、“何か”、起こっちゃうかもしれないのにサ」 「一体何が起こるって言うの? ああ、家には誰も呼んだことないから、誰かが押しかけてくるなんてことはないわよ」 「……ふぅん」 生返事の俺に、ちゃんは足をぴたっと止めた。それから俺を振り返ると、びっくりした表情で「何がそんなに怖いの? ホテルでいいよ、そんなに心配なら」と溜息をついた。そんなに怯えた――情けない顔をしていただろうか。ううん、と笑ってみせた。 「何も心配じゃないよ。だって言い出したのはちゃんだし、“何か”起きても俺は被害者でいられるもん」 「アハハ、そうだね。やだぁ、怖いねぇ」 「やっぱりちゃんは地獄行きだよ」 俺がそう言うと、ちゃんはにっこりとして「それでいいよ。楽しそうじゃない、地獄。天国なんかよりずっと刺激的で面白い」と鼻歌交じりにまた歩を進め始めた。そのうちスキップでもしそうなくらいご機嫌って感じだ。けれど、「じゃあ俺も地獄行きがいいな」という俺の言葉には笑わなかった。いや、笑ってはみせたけれど、あの顔だ。バカな子、って心の中で大笑いしてる顔。 「何か起きても徹クンは被害者なんだから、地獄になんて行けないわよ。慈悲深い天使が迎えにくるわ」 それからしばらく歩いた。ちゃんのおうちはマンションの一室だった。表札には“”と書かれている。そういえば、俺はちゃんの名字って知らなかったなあ。 ちゃんに「どうぞ、入って」と言われて部屋へ上がった俺の感想は、「……ねえ、ここホントにちゃんち?」だった。もちろんちゃんは嫌そうな顔をして、「え? 着いて早々なぁに? 何か変なとこある?」と言って高そうなソファにひょいっとバッグを放った。 「だって、こんなトコに住んでんの?」 「“こんなトコ”? 失礼ねぇ、わたしは気に入ってる。立地はいいし、まだ新しいマンションよ」 「それは分かるけど……そうじゃなくて」 狭くはない。リビングダイニング、ぱっと見回すと、ドアが二つ。狭くはないと思う。思うけれど、「ここで二人暮らしって、ちょっと無理があると思うんだけど。手狭じゃないの?」っていうのが俺の感想である。 俺はまだ高校生で、同棲なんてしたことない。だからどのくらいの広さであれば二人で快適に暮らせるか、そのためにはいくら必要かなんてことは分からない。けど、それにしたって手狭だ。そう思うほど、ちゃんて持ち物が多い(イメージだ)。だって会うとき一度だって同じ服を着ているのを見たことがないし、バッグだって靴だって毎回違う。その他、時計をはじめとした装飾品もみんなそう。唯一変わらないのは、左手の薬指にある指輪だけである。それだけの量のなんだかんだを、一体どこに収納しているのか。全部もらいものに決まってるけど、それをどうやってこの部屋で隠せるっていう? 俺があちこちへ視線をやっているのを、訝しげな視線が追ってくるのが分かる。やっぱりちゃんみたいな人がここで二人暮らしって、どうやったって無理があるんじゃないか? 「……二人暮らし?」 なんとも言えない声音だった。どこか怒っているように聞こえて、でも呆れているようで、でもやっぱり怒ってる風だ。それに俺はちょっとムッときて、「それとも別居中とか? だからこういうコトしてるの?」とわざと煽るようなことを言った。するとちゃんはスッと表情を失くして、「なんだかわたしが結婚でもしてるみたいね」と言ってストンとソファに腰を下ろした。俺はそれを立ったまま見つめて、「……隠せることでもないのに、なんでそんな言い方するの?」と詰め寄った。まるで浮気を問いただす奥さんって感じ、と思うとなんだか笑えてきた。だって俺は盗られるほうじゃなくて、盗っちゃうほうだもん。 ちゃんは笑った。バカな子、っていう風に大笑いした。 心の中でじゃなく、実際に。 「アッハハハ! 隠す?! やだ、ホントにわたしが結婚なんてつまんないコトしてると思ってるの? わたしは結婚なんて死んだってごめんよ。一度しかない人生なのに、たった一人に自分を捧げるなんてもったいないことできないわ」 ちゃんはクスクス笑った。これは大笑いではなくて、子猫を可愛がったりするようなもんだな、と思った。じっと伺うように、俺がどうでるか? と反応を心待ちにしているように見える。俺はもちろん、うろたえた。それもとても分かりやすいものだったのだろう。ちゃんはますますクスクスと笑った。 「え、だ、だって、ちゃん指輪だってしてるし、家には上げられないって口癖みたいに言うし、約束はいつも破るし、最後には必ず帰っちゃうじゃん!」 そうだ。ちゃんの態度、振る舞いは“結婚している”と言わんばかりだった。少なくとも俺にはそう見えていたし、きっと俺以外のその他だってそう思っていたに違いない。ちゃんは面倒だなぁという顔を隠しもしなかった。俺が一番恐れていたものだ。はぁ、と息を吐くと、ちゃんは言った。 「指輪は面倒なこと避けるためのお守り。家に上げないのは、一度それでストーカーみたいな真似されて心底ウザかったから。約束破るのは……んー、贔屓しないようにしてるから? 最後に帰るのは当然じゃない。自分の部屋が一番居心地良いもの」 ああ、なんてことだ。こんな事実を知ってしまったら、俺はますますこの泥沼から抜け出せない。茨の道? それがなんだっていうんだ。俺以外の“誰か”のものでないなら、もしかしたら手が届いてしまうかもしれない。いつでもどこへでも、自分勝手に人を捨て去るこの人の“唯一”に、俺がなれるかもしれない。 泥沼結構、茨の道上等。しがらみがないのなら、俺は賢くいる必要もない。 “若さ”ってだけの装備で、必ず攻め落としてやるからね。 「ちゃん、今夜はとってもいい夜になりそうだね」 |
Photo:青の朝陽と黄の柘榴