「バッカねえ、言えばいいじゃん。他の女の子と仲良くしないでって」

 そんなこと言ったって無理に決まってるじゃあん……。溜息のように、彼女は応えた。
 今日は部活早く終わるから、教室まで迎えにいくね。ゆっくりしてて。
 そう言った手前、ここで引き返すのはなんか違うし……でもだからってここで立ち聞きするわけにもいかない。けど「おまたせ〜」とかヘラヘラして出ていくだけの度胸もない。

 だって俺とちゃんが付き合えるようになったのって、なんていうかいわゆる“ラッキー”なわけで、俺はちゃんのこと大好きだけど、ちゃんの気持ちは分からない。「いいよ」とは言われたけど「好きだよ」って言葉は、告って早一ヶ月だけど一回も聞いたことがない。

 どうしようかな、これたぶんていうか絶対俺の話だと思うんだよね……とまごまごしてるうちに、(声からして)ちゃんのいちばんの親友だっていうさんが、「及川くんはのことめっちゃ好きだよ」と言ったので、そう! そうなの! と言いそうになってしまったけれど、あ、やっぱ俺の話ネ、と足がその場に縫い付けられた。……もうこれ盗み聞きしちゃうポーズだ……。

 「……そうかなあ」
 「えっ、アンタそれ本気で言ってんの? 及川くんかわいそー。あーんなにスキスキって言ってんのに」


 そう! そうなの! とまた言ってしまいそうになった。


 俺がちゃんを好きになったのって、本人には言ってないけど中学のときだ。ちゃんは北一生じゃなかったし、バレーやってるわけでもない。じゃあどこで? と聞かれそうで、告白するときもそこは濁したし、ちゃんも特に追及してくることはなかったので、まぁいいよね、と思っていたわけだけど、「そもそもそれ本気だと思う? ちゃん。わたしそうは思えない」という言葉を聞いて、思わずその場に座り込んだ。


 なんてことだ……本気とすら思われてないなんて! 


 「ええ?! アレが本気じゃなきゃ何が本気なの?! 及川くんだよ?! 及川徹だよ?!」

 「もうっ、大声出さないでよ! ……だって、及川くん、なんでわたしのこと好きなの? そこが分かんない」

 「なんでって、理由必要?」

 「必要だよ。だって及川くんだよ? それがなんでわたしに……」


 なんでって、全部キミが始めたことじゃないか。俺は両手で顔を覆った。




 その頃、毎朝通るランニングコースで、ちゃんとよく擦れ違っていた。
 ちゃんはあんなこと覚えてやしないだろうけど、俺は今でもずっと忘れない。


 こんな早い時間から家を出るなんて、よっぽど遠い学校に通ってるのかなあ。
この辺では見たことない制服だし。それにしても毎日毎日、そのうち電柱にでもぶつかりそうなくらい眠たげだ。あの子、大丈夫なのかなぁ?

 あんまりにも毎日毎日擦れ違うので、見かけるたびに俺はちらっと彼女の姿を確認するようになった。そのうちにあの子どこの学校だろうとか、何年生かなとか、なんとなく気になり始めて、それから一年。

中学三年のとき、初めてまともに会話をした。

 日課のランニングを予定より早く終えて、近くの公園で休憩してから帰ろうかな。そう思って、敷地内に足を踏み入れようとしたとき、「あの」と躊躇いがちな声に呼び止められた。振り返ると、毎朝見かける彼女――ちゃんだった。

 「急に声かけてごめんなさい。あの、よかったらこれ」
 「え?」
 「……間違って、買っちゃって……」

 彼女がそう言って俺に差し出したのは、スポーツドリンクのペットボトルだった。気まずそうな顔で視線をさまよわせる姿に、俺はちょっとおもしろくなって、「何を買おうとしてたの?」と聞いた。「あ、えっと、ミ、ミネラルウォーター……です」とますます気まずそうな顔をした。全然ちがうなぁ、と思って、財布を取り出そうとしたらジャージのポケットには何も入っていないことに気づいた。

 「うーん、俺がお金持ってきてたらよかったんだけど……軽いランニングだけだったから持ってないや。交換ならよかったんだけど」

 「あ、いいんです、気にしないで。いつも頑張ってるし、応援して――あ、」

 「……え」

 「ごっ、ごめんなさい、あの、ま、毎日擦れ違ってるから、走ってるの、知ってて、あのっ」

 必死に違うんですちがうんです! と何度も繰り返すので、俺はくっと喉の奥で笑った。
そうか、俺ばっかりじゃなかったんだね、気にしてたのは。

 そう思うとますます面白くなって、「キミ、中学生だよね? 学校どこ? 制服、この辺のじゃないよね」という俺の言葉を始めとして、しばらく話をした。俺の疑問もこのときに解答を得た。ちゃんは電車で一時間半もかかる進学校に通っていて、それで毎朝眠たげな様子で俺と擦れ違っていたらしい。彼女との会話は他愛もないことばかりで、たとえば授業の進行はどのくらいだとか、テスト勉強はどうしてるとか、そういうものだった。

 この頃、俺はちょっと(と言うには岩ちゃんにも当時のチームメイトにも迷惑をかけたけれど)スランプに陥っていて、来る日も来る日もバレーのことで頭がいっぱいだった。越えなければいけない壁、追いかけてくる才能の塊、それだけが俺の何もかもを支配して、なんとかしなければと急いては練習に打ち込んでいた時期だった。俺は何もかもにがむしゃらだった。彼女との会話は、荒んだ俺の心を、ささくれだったところを、優しく癒してくれた。


 こんな子が、いつもそばにいてくれたらいいのに。そう思ったことは、何も不思議じゃない。ただ、それが恋心だったのだということに気づくのは、随分と時間が経ってからだった。たったそれだけのことでバカみたいだと俺は思ったけれど、たったのそれだけ? ってことで人はたやすく恋に落ちるものなのだ。恋に落ちてしまったら、人なんてみんなバカだ。

 彼女との会話は、それっきりだった。
毎朝見かけていたのに、初めて話をしたその日を境に姿を見なくなった。
 何かしてしまっただろうかと思ったけれど、俺は彼女の連絡先を知らなかったし、まぁ毎朝こうして走っている限りはまたすぐに顔を合わせることになるだろうと思っていた。
けれど、そんな日はこないまま、俺は青城へ入学した。

 それからしばらくのことだった。彼女を再び目にしたのは。




 移動教室のとき、ちらっと向けた視線の先に彼女が――ちゃんがいた。あっちも移動教室なのか教科書やノートなんかを抱えて、友達と(さんだった)楽しげに会話しながらその姿は遠ざかっていた。俺にはその時間がとても長く感じられて、その間頭の中は彼女に聞きたいことでいっぱいだった。どうして? そればかりが。

 それから毎日、ずぅっと彼女を探している自分がいた。移動教室から学校行事に至るまで、いつでもどこでもその姿を探した。でも、あの出来事を覚えているのなんて俺だけで、彼女にとってみたらなんてことないことだったんじゃないかと思うと、とてもじゃないが声をかけようなんていう勇気は出てこなかった。

 それがどうしてちゃんと付き合えるようになったかというと、本当にただの“ラッキー”だった。ちゃんがたまたま先生に雑務を頼まれて、そこにたまたま俺が通りかかって(とても緊張した)、じゃあお前も手伝ってと先生に言われて、資料室で頼まれたものを二人きりで探して、そのときちゃんがたまたま、思い出したように言ったからだ。


 「ねえ、及川くんってまだあそこの道走ってるの?」


 覚えてたんだね、とか、じゃあなんであの後から姿を見せてくれなかったのとか、聞きたいことはたくさんあった。あったはずなんだけれど、何を間違ったのか「俺ずっと前からさんのこと好きなんだよね! 付き合ってくれないかな! お願い!」と外にまで聞こえるんじゃないかというほどのボリュームで言い放っていた。

 ちゃんは目を丸くして、それから戸惑ったように、「え、ああ、うん、いいよ。よろしく」と言ってさっさと作業に戻ってしまった。え? いいの? カレカノってことだけどいいの? と確認しようかと作業中何度も思ったけれど、「じゃあさっきのナシで」と言われるのがこわくて俺は何も言わなかった。それで今日までやってきて、二人でどこか出かけたり、そのときには手も繋ぐし、こないだやっと初キスもしました。部活が休みの日は放課後デートするし、毎日好きだよって言葉も送ってる。ちゃんは、特に用事がなくて俺の部活終わりが早い日は、今日みたいに俺を待っていてくれる。俺の方はきちんと気持ちを伝えているつもりなんだけれど、ちゃんにはまったくと言っていいほど伝わっていないのがよく分かる会話だ。


 「でもさぁ、も意地っ張りっていうかさぁ……。どうでもいいじゃん。今付き合ってるんだし、及川くんものこと好きって言ってくれてるんだから“ラッキー”って思えば」

 「だからその“ラッキー”が嫌なんだってば。わたしは及川くんのこと、中学のときからずっと好きだったよ。……この話何回もしたよね? とにかくそういうことだから、及川くんがどういうつもりか分かんない以上、つらいんだもん。遊びなのかなぁとか、そういうさ」

 あ、でもわたし遊ばれるほどの魅力もない。
ちゃんが言ったところで、俺は扉をガラッと引いた。


 「あのっ!」


 「えっ、あ、及川くんっ、」
 「ありゃあ、スゴイ。及川くん全部聞いてたの? あはは、ウケる。じゃあアタシ帰るね。ごゆっくり」
 「えっ?! ちょ、ちょっと待ってよちゃん! ちゃ――」


 さっさと教室を出ていったさんの背中に手を伸ばすちゃんの指先を絡め取って、そのまま体ごと腕の中に収めた。びくっと震えた体をぎゅっと抱きしめて、「ねえ」と声をかけると、ちゃんはますます体を硬くした。


 「今の話、ほんと? 中学のときからってやつ」
 「ちっ、……ちが、わない……けど、」
 「なんで?」
 「……いつも走ってるところ見て、一生懸命だな、って、思ってて、それで……」
 「うん」
 「……っもうこの話おしまい! ……とにかく、わたし、及川くんのこと――」


 耳まで真っ赤に染めて、俺の腕の中で小さく震えるちゃんに、唇がむずむずしていくのが分かった。なぁんだ、全然“ラッキー”なんかじゃなかったんだ。こうなるべくして、なったんだ。
 小さく、ほんとうに小さく身動ぎするちゃんを、もっともっときつく抱きしめて、俺は言った。


 「……あのね、ちゃん。告ったときには言わなかったけどね、俺ね――」


 この恋の始まりをすべて話したら、今度こそキミは、俺が好きだとハッキリ言葉にしてくれるだろうか。






background:十八回目の夏