「おまえが欲しい」と言ったら、この目の前の女はなんと答えるだろう。見たことがない、そもそも現代においてそんなものが存在しているのか? というこの思想すら怪しいが、もしも天使ってやつが存在するならこんな感じだ。そう思わせる、純真無垢といった女は。俺はその答えに本当はもう辿り着いている。この女は、魔性だ。天使? 笑える話だ。俺はここまで酷い女を知らない。だからこそ、俺が俺の“飼い主”と認める女はこれだけだ。 「慎也くん」 柔らかなこの声には、あのお堅いギノでさえも黙る。それはこのという女が俺たちの先輩に当たることもあるだろうが、決してそれだけではない。だから魔性だ。人に有無を言わせない。そしてそのことを当人は分かっていて、誰をも手懐ける。 「なんですか、さん」 監視官時代の癖が抜けないというのもあるかもしれない――俺はこの女に仕事を教えられた――が、逆らいがたい魔性が、どうしても俺を跪かせるのだ。俺は執行官で、もうどうあってもこの人にあの頃のように気安くはなれないし、どうあっても手は届かない。それがどうしても引っかかって、さんの下での仕事は簡単に言えば苦手だった。 近いうちに新しい監視官がやってくるという。この人との仕事が俺に回ってくることがなくなってしまえばいいのに。俺は離れがたいとどこかで思っていることにはもちろん気づいている。自分のことであるのだから容易だ。それでも、くだらない理想を願ってしまうくらいならば、その方がずっといい。 さんは口元に手をやって、くすくすと笑った。それから、「やだ、前みたいに“さん”とは呼んでくれないの?」と言って、一歩、俺に近づいた。今、オフィスには俺とさんの二人きりだ。静かなもんである。誰も、止めに入っちゃくれない。いや、誰かがいたとしても、誰も関わらまいと口を閉ざして知らん顔しているだろう。 さんは俺のデスクに片手をついて、そっと俺の顔を覗き込んできた。一体なんだろうか。スーツは完璧にきっちりと着こなしているくせして、そこから溢れんばかりに漂う色香は。俺は思わず、いや、そうでもしないと喰らいついてしまいそうで、ごくりと生唾を飲み込んだ。 「慎也くん、新しい監視官が来たら、すぐにでもわたしから離れたいと思ってるでしょう」 「……まさか。さんのところのほうが、俺の流儀で好きにできるってのに」 「ねえ、名前で呼んでくれなくちゃ嫌よ、慎也くん」 「……俺はもう、アンタの知ってる“狡噛慎也”じゃない」 するとさんはもう片手で、俺の頬から顎までの輪郭をゆっくりとなぞった。 背筋が震えた。この人は一体、俺をどうする気だろうと。 「わたしの知ってる“狡噛慎也”じゃないから、あなたが欲しいのよ。今のあなたは猟犬で……飼い主のわたしの番犬よ。きちんと仕事をしてもらわなくちゃ困っちゃうわ」 「……俺はもうアンタの知ってる“俺”じゃないと言ったぞ」 「ええ、聞いたわよ」 「アンタら監視官の番犬だが、俺の本分は猟犬だ。そのお綺麗な手、いつ喰い千切られるか分からないぜ」 さんは俺の緩いネクタイを引っ張りあげると、その動きに釣られた俺にキスをした。それも“天使”からの口付けには程遠いねっとりとしたもので、いつの間にか俺は夢中になって、攻守逆転とばかりにすべてを奪ってやろうという気で喰らい尽くした。そのまま彼女の細い体をデスクに押しつけて、「いつこうなるか分からない。それでアンタはいいのか、さん」とその目を見つめた。快楽に溺れている、女の目だ。このまま奥底まで連れてって。そんな風にねだられているような錯覚に陥る目だ。溶けた瞳が、俺の視線を縫いつける。 「それが欲しいの。わたしの隙を狙っていつ喰い殺してやろうかって、そういう目が欲しいのよ。それをわたしにくれるのは、あなたしかいないわ。……でも、わたしだってそう簡単に喰い散らかせやしない。これはゲームよ。乗る? それとも……そのかわいい尻尾を震わせて逃げる?」 「……“かわいい尻尾”とはよく言ってくれるぜ。後悔することになるぞ、アンタ」 「それはどうかしらね。あなたの腕次第よ、慎也くん」 もうこのまま、と細い手首を束ねてぐっと押しつけて――と思ったところで、俺はパッと体を離した。さんもすぐに居ずまいを正す。 「さん、ここにいましたか。……狡噛が何か?」 「あら、何か用でもあった? 宜野座くん。ふふ、新しい監視官がね、わたしよりもずぅっと若くてかわいい女の子だって教えてあげてたところよ」 「……仕様のない人だな。そういった情報は執行官に漏らすものではないのでは?」 「あら、宜野座くんだって若い女の子のほうが好きでしょう? 慎也くんもやる気になってくれるかと思って、つい。うふふ。それで? わたしに用があったんじゃないの?」 ギノはなんともいえない顔をして――実際、コイツがこの女に何か言うことはないだろうが――しかし、俺のことは鋭く射抜いた。 ギノは口にこそ出したことはないが、というこの魔性の女にすっかり入れ込んでいる。刑事課へ着任し、この女を先輩としてからずっと。仕事こそみっちり平等に教え込んでもらっていたと記憶しているが、プライベートでも関わりを少なくも持っていたのは俺のほうだった。「宜野座くんお堅いから、荷物持ちなんて頼めないわ」と言って、非番が重なれば嫌でもこの人に街へと連れ出され、あちこちでの買い物に付き合った。そういうことをこの女はまったく隠すことがなかったから、この面に関してのギノからの風当たりは強い。俺は今やただの執行官で、自由に外を出歩くこともできないのだ。これをチャンスにと捕まえてしまえばいいのに。俺はそう思ったが、それは“今の俺”だからこその思考だし、元々がお堅いギノには思いつきもしないだろう。 「局長がお呼びです。至急とのことでした。……犬と遊んでいる場合ではないですよ」 「あらぁ、それは大変。わざわざ探し回ってくれたのね、ありがとう。それじゃ、行くわ。……あぁ慎也くん、よく考えておいてね」 カツカツと高いピンヒールの音を響かせながら、さんはオフィスを出て行った。するとギノはつかつかとこちらへやってくると、俺の胸ぐらを掴んだ。突然と言えば突然だが、予想はできていた。 「さんと一体何を話していた?!」 「そんなに気になるなら本人に聞いてこいよ」 「おまえの影響でさんのサイコパスに問題が起きたらどう責任を取るつもりだ!」 「おまえこそ、さんの影響で色相を濁しそうに見えるが」 ギノはチッと舌打ちを一つすると、乱暴に俺を解放した。コイツはきっと――いや、絶対に――あの女を“天使”であると信じている。美しくなんの穢れもない、神聖で崇高なる存在であると。俺ももしかしたら、そんな風に思っていた頃があったかもしれない。でも“今”は違う。あの女から匂い立つ危険性を察知できるのは、猟犬だけだ。そしてその猟犬のリードを握るに相応しいのがあの女であるというのも理解できるから、俺は番犬でもある。 俺はどんな理屈を並べても、結局番犬としての己はあの女の前でしかいられない。 「慎也くん」 近づいてくる気配で既に分かっていたし、そのまま聞こえなかったふりをするのもよかった。そうしたほうが身のためだとも言える。けれど俺は、「なんですか、さん」とあの頃のように返事をした。するとさんは一瞬驚いてみせて、それから笑った。 「ふふ、そうやって呆れたようにわたしを呼ぶ声、とっても好き」 「……昔から掴みどころがないとは思っていたが、変わってるな、アンタ」 「そう? 女なんてみんな一緒よ。“野獣”が大好き」 「そうですか。……で? なんです?」 もちろん用件なんか分かっちゃいたが、容易くなく、むしろこちらの手がすべて暴かれること覚悟での腹の探り合いってのをしてみてもいいか、と一瞬思った。けれどやはり、この魔性の女はそうはさせない。誰をも手懐けるのだ。跪かせるのだ。リードを握られている犬が、抗えようはずもない。 「まさか、この間の話、忘れたとは言わせないわよ」 「……だからアンタ、それ本気で言ってんのか。色相濁るぞ」 俺がそう言うと、さんはさもおかしいと言わんばかりに笑った。嘲るようだった。 一体何に対してなのか。そこまでは俺には知れない。 「わたしの心配だったら無用よ。……色相も犯罪係数もちっとも怖くない。あぁ、ごめんなさい、慎也くん自身の心配だった?」 うふふ、なんて今度は上品な微笑みを浮かべたが馬鹿らしい。 「よく分かった。アンタ、マジで食い千切られることをお望みなんだな」 細い手首を捻り上げると、さんはうっとりとした目で俺を見つめた。 あの時と同じ、女の目だ。 「初めからそう言ってるわ。……ねえ、やってみせてよ。わたしのこと、食い散らかしてみせて」 この女の“食い散らかす”とは、果たしてどういう意味だろうか。俺の都合のいいように受け取っていいものか。だがしかし、目の前でうっとり女の目を見せるところからして、“そう”していいのだと受け取ったって構わないだろう。後から文句を言われたところで、「俺は言われた通りに食い散らかしただけだ」と答えればいい。俺も笑った。 「……そんだけ言うならもう後には引くなよ。次の非番が重なったときが楽しみだな」 「あら、一日中付き合ってくれるの? 嬉しい」 「アンタにそれだけの体力があればな」 「そうねぇ、それは試してみないと分からないわね」 面白げに口端を持ち上げながら、さんは俺のネクタイをぐいっと引いた。あの日のように。今度は先手を取ってやろうとその手をこじ開け振り払うと、壁に細い体を押し付けてやった。そして喰らい尽くさんと唇を奪うと、「まぁなんにせよ、部屋から一歩も出さない」と今にも途切れそうな銀色の糸を、赤い唇ごと舐めとった。さんは笑う。本当にこの人は“天使”のようでいて、その正体は魔性だ。そういえば、天から堕ちた“堕天使”なんて存在もあったな、と頭の片隅で思った。 「うん、素敵。とっても楽しそう。……あぁ、慎也くんのことだから心配ないと思うけど、宜野座くんにはナイショよ。彼、お堅いんだもん」 難しい顔で、それとも俺を射殺す目で、ギノは軽蔑することだろう。 誰を? もちろん俺を。 「宜野座くんお堅いんだもん」このセリフで、俺は過去ずっと振り回されてきた。けれどそれを疎ましく思ったことはないし、きっと優越感すらあったのかもしれない。この人が自分で選んだのは俺だということに。 それでも、今となっては関係性は変わってしまったがギノのことは大事な友人であるとも思っている。もう昔には戻れないとしても。だからこそ、この女を目の前にした時のギノの顔を思うと、心中複雑になるのは当然だった。それを誤魔化すように、「それにアンタを“天使”だとでも思ってる」と返した。 監視官と執行官との線引きは明確だ。 この女は俺が欲しいと言った。俺も、この女が欲しい。 かといって、その先には何もない。 「そう。宜野座くんて変わってるわよね」とさんはまた嘲るように笑った。それから「……わたしの知り合いにね、わたしのこと、“堕天使”って評する人がいるわ。わたしもそう思う。“天使”なんて、笑っちゃうわ。そんなもの、いやしないのに。もしも存在するなら、その人が言うような“堕天使”だわ」と続けた。 「ギノが聞いたら卒倒するぞ」 胸ポケットから煙草の箱を取り出す。 一本取って火を付けようとすると、俺の手を女の手がするりと伝った。 「そうかしらね? ……夢は夢で悪いものじゃないわ。だから、宜野座くんには“天使”のわたしをあげようと思うの」 「……俺には?」 火を付けよう。さっさとこの手を振り払おう。そう思うのにできなかった。 女は唇でゆっくりと弧を描いた。美しい曲線だった。 「そうね……何がお望み? あぁ、“堕天使”でいるのは名付け親の彼のためだから、それはダメよ」 「……どれだけ男を飼ってんだか、知りたくもない話だな」 そこでやっと白い手を払うと、今度こそ煙草に火を付けた。 「でも慎也くんは乗ってくれるんでしょう?」 確信を得ているという声音だった。俺は考えることもなく即答した。だってどうしたってこれしかないのだ。迷うこと、考えることに何の意味がある? 「そうだな。じゃあさん、アンタは俺の“飼い主”でいてくれ。この先もずっと。きちんと手綱を握っていないと、いつアンタを食い殺すか分からない番犬の“飼い主”だ」 へえ、とさんは感心したように溜息のような声を発した。 「わたしを好きにしていいって意味だって分かってるくせに、随分と謙虚ね」 「謙虚? ……どうだかな。リードをしっかり握ってろ。いつブチ切るか分からんぞ」 怖いこと、と言いながら、さんは去っていった。 この先どうなるか? あの女しか知らないことだ。 ただ次の非番、俺はもうそこで“飼い主”の手を離れるつもりでいる。 |