「、ただいま」 彼女の希望で、ボンゴレ本部から少し離れたところへ家を買った。庭には俺には名前も分からない花々が見事に咲き誇っている。使用人に聞けば、庭の手入れはすべてがしているようだ。俺はそういったことに特別興味はないし、何が季節の花で、何が特別だとかいうのはまったく分からない。けれどこの箱庭で彼女が唯一心を開き、それがまた彼女の心を癒しているのならそれでいい。 「あぁ、今日はお早いお帰りですね、綱吉さん。うれしい」 「うん。いくら仕事に追われていると言っても、きみを蔑ろにしたいわけじゃないからね」 「そのお言葉だけでわたくしには充分ですわ」 今の会話は、どこまでが本心かな。それとも全部が嘘だろうか。にこにこと愛想のいい、“ボンゴレの妻”として完璧な彼女に、俺は何も言うことがない。 ちらとへ目を向けるとお茶の準備をしているらしかった。ハーブだ。良い香りがする。 そういえば、庭ではそういうものも栽培しているとも聞いたな。 でも俺はそういうものもよく分からないし、今漂うこの香りの正体も分からない。 「ねえ、そのお茶はなんの茶葉?」 「カモミールです。近頃はお仕事が立て続いていて、お疲れのようだと獄寺さんから伺っておりましたので、よく眠れるようにと。……差し出がましかったでしょうか……」 「いいや、嬉しいよ。ありがとう」 けれど一体、彼女はどういうつもりで俺にわざわざお茶を淹れたりするんだろうか。獄寺くんに言われたから? それに、玄関先で交わした言葉も、まるでいつも俺の帰りを待っているのかのようだった。俺ととの関係は、こんなものじゃない。もっと義務的で、殺伐としているもののはずだ。 これではまるで、本当の夫婦みたいじゃないか。 俺ととの関係は、お互いに利害関係が一致しているからという理由での、いわゆる政略結婚というやつだ。未だにそんな風習……と思ったが、この世界では当たり前のように行われていることの一つで、誰も何も口出ししなかった。それもそのはずで、一応肩書きとしては俺の妻になっているこのという女性は、ディーノさんが率いるキャバッローネの深窓のご令嬢という人で、俺も見合いの話を聞いたとき、ディーノさんに妹がいるだなんて初耳だった。が外へ出たがらないからと隠してきたけれど、そろそろ頃合いだし、だからといってそう易々と他へくれてやりたくもない。そこで俺に白羽の矢が立ったというわけだ。 その見合いの席で人払いをしたとき、は俺に言った。 「わたしはディーノ兄さまの実妹ではありません。半分は血の繋がりがありますが、わたしは妾の子です。綱吉さまには相応しくありません。兄さまにはわたしからうまく言っておきますので、どうぞお断わりください」 久しぶりに、そんな目を見た。どこまでも真摯で、なんの曇りもない真っ直ぐとした瞳。 その瞬間、俺はストンと納得した。俺の生涯のパートナーはこの女性だと。 俺は恋に落ちたと同時に、愛を、慈しみを覚えた。 俺ととの結婚はみんなから祝われた。ボンゴレとキャバッローネとの繋がりも、より強固になった。みんなが笑顔だった。一人を除いて。誰も気づかなかったろう。気づいていたとしても、止められる者もいなかった。 俺は見合いの席からずっと、時間さえできればのところへ通った。初めて会ったあの日から、俺はきみに夢中なんだと分かってほしい、俺の唯一の女性になってほしいと、心の底から願っていた。けれどそんな思いは伝わることなく、式を迎えたのだ。 俺が彼女のところへ通うのを喜んだのは周囲の人間だけで、肝心のはちっとも喜んじゃいなかった。にこにこ可憐な笑顔を浮かべて俺の話に相づちを打っても、驚いてみせたり冗談を返してきても、の目にはちっともそういう感情は見られなかった。ただあの結婚式のときだけ、感情を持って笑った瞬間があった。 誓いのキスが終わったあとだ。あれは、これで自分の責務を果たした、キャバッローネに貢献した、というような笑顔だった。晴々としていた。泣き出すディーノさんの背中を優しく撫でる手付きは、母親が子どもをあやすかのごとく慈愛に満ちあふれていた。俺は同じものをに与えたくて、同じものを返してほしくて、あの日に感じたものは決して間違ってやしなかったと思った。 愛だ。誰かを思いやる慈愛だ。俺が求めていて、それを与えてくれるのは彼女を除いていない。俺が同じものを与えたいのも、彼女なのだから。 彼女が感情を持って笑う姿が、もう一度見たい。いいや、一度と言わず何度でも。にとっては義務的で殺伐とした政略結婚だとしても、俺にはそうでない。このことを直接彼女に言ったことはないけれど。きっと混乱させるだろうし、見合いの席その場で断りを申し出たくらいなのだ。何を言い出して、何をするのか分からない。俺はどんな形であれ、と“夫婦”でいたい。にとってはすべてが義務からの振る舞いであるとしても。 だから俺は、新婚生活を始めるにあたって、何か欲しいものはないかと初めての夜に聞いた。するとは、「ボンゴレのお屋敷から離れたところに、家が欲しい」と言った。ここでの生活は嫌かと聞いた俺に、は笑った。ここで生活をしていたら、綱吉さんの妻としての仕事をすべて持っていかれてしまうじゃないですか、と。こうして縁を結んだからには、妻としての役割をきちんと果たしたい。の望みはたった一つ、これだけだった。屋敷にいては多く抱えている使用人たちに仕事を取られてしまう。だから家が欲しい。俺はそのくらいなんてことない、分かったと頷いてすぐに新居を建てることに決めたけれど、“ボンゴレの屋敷から離れたところ”というのが引っかかった。本心は、俺から少しでも距離を置きたいということなのではないかと。 その日の夜、俺は指先ですらに触れなかった。 お互いに背を向け合って朝を迎えた。 いよいよ新居が完成したとき、俺は使用人を一人置くようにとに言った。「仕事の都合によっては毎日帰れないかもしれないし、その間にきみ一人残しておくのは不安だ」と言って。は素直に「分かりました」と答えた。俺の薄汚い思惑に気づいた様子は見せなかったけれど、どうだろう。 が望んだ家は、すべての好きなようにさせた。どこか遠くへ出かけるときには、さすがに誰か守護者を連れて行くようにとしているけれど、基本的にはなんの縛りもない。俺が帰らない日は使用人と二人で暮らし、俺が帰る日には使用人と入れ違う。 この使用人というのはもちろん女性だけれど、その正体とはボンゴレの諜報員である。毎日の様子を報告させている。諜報員であるからには、武術や格闘技もそれなりの腕だし、近場で起きる些細ないざこざに巻き込まれたとしても心配することはない。 俺はこうまでしての何もかもを知り尽くして、彼女にも俺が感じたものをその心に受け取ってほしい。 「お茶が入りましたよ。綱吉さん」 「うん、ありがとう。……いい香りだね。確かにぐっすり眠れそうだ」 「それはよかったですわ。この家でくらい、綱吉さんには心安く過ごしていただきたいんです。そうでなければ、お屋敷から離れたところへ家を買って頂いた意味がありませんもの」 一度手にしたカップを、静かにソーサーに戻した。「綱吉さん?」というの気遣わしげな声は、俺の感情を爆発させるに十分だった。 「、きみはひどい人だね。一体どういうつもりでそんなことを言った?」 びくっとの細い肩が揺れたのは視認できたが、気づかぬふりをした。うつむく彼女の表情は窺えない。あの、と何か発そうとする声が震えている。俺は席を立ちの目の前に立つと、ゆっくりと膝を折って青白くなっている顔色を覗いた。恐怖だろうか。その瞳にはたっぷりとした水分の膜が張っている。 「ど、どういうつもりとは……」 「じゃあ質問を変えようか。どうしてボンゴレの屋敷から離れたここへ、家を欲しがった?」 「そ、それは……」 言いよどむに、俺ははぁっと重たい溜息を吐いた。 ティーカップからはまだ優しい香りが漂い、温かいですよ、飲みごろですよ、と言わんばかりだが、到底手を付ける気にはなれなかった。 やっぱり俺の一方通行で、俺はに愛されていない。知りながらもどこかでなんとかやりすごしてきた真実を、一番に避けたかった本人から突きつけられてしまった。 「……そんなに、俺と一緒にいるのが嫌?」 「え……」 「キャバッローネへの恩義のためにきみが俺と一緒になったのは分かってるよ。それでもいい。でも、こんな仕打ちってないじゃないか。俺との結婚が嫌だったなら、それでもいい。でも、それならまるで俺を愛してるかのような振る舞いはやめてくれ」 俺がそう言うと、は頼りなさげな両手で顔を覆って、その場に崩れ落ちた。反射的に「!」と細い体を支えてやると、彼女は大粒の涙を溢しながら、ゆっくりと俺にその心中を語った。今までずっとひた隠して、これから先も誰にも――俺にも悟られまいとしていたことを。 「だって、だって……おかしいでしょう。わたしは列記としたキャバッローネの女ではないし、綱吉さまには相応しくありません。お屋敷の人たちだって、このことを知ったらわたしのことなんて認めて下さらない。ここへ家が欲しいと言ったのは、それこそキャバッローネへの恩義のためにわたしを貰って下さった綱吉さまのためです。わたしが少しでも離れていれば、綱吉さまのご機嫌を損ねることもないし、わたしだって――今以上のことを望まずにいられます。“夫婦ごっこ”でいいんです。わたしは綱吉さまと一緒にいられるなら、ボンゴレもキャバッローネも関係ない、ただの人として、あなたと少しでも平穏な日常を過ごしてみたかったから……! だから、だからここが欲しかったし、あなたさまのためになると思ったことは、一生懸命やってきたつもりです!」 でも、それが迷惑だと仰るのなら、もうすべてやめにします。“夫婦ごっこ”なんて一人遊びはやめにします。離婚はどうあっても無理でしょうから、綱吉さま、もうここへはお帰りに――顔を見せに来ていただかなくて結構です。 俺は呆然として、なんと答えたらいいのか分からなかった。理解が追いつかなかったというのが正しい。だって話を聞く限りではまるで、は本当に俺を愛してるみたいじゃないか。俺が欲しいと、ずっと渇望していたものは既に手に入っている。そういう風に聞こえる告白じゃないか。 そう思った瞬間、俺はを抱きしめられずにはいられなかった。 「つ、綱吉さま、」 「いやだな、いつもみたいに呼んでよ」 「ですが……わたしは、」 「その先は聞きたくない。今も、これから先も」 は本当に綺麗な、まるで何かの宝石であるかのような涙を流しながら、「これではまるで、あなたがわたしを愛してるように聞こえます……おやめになって」と俺の胸を押した。もちろんの細腕で押し返されるようなことはない。 「ねえ、。俺は初めてきみに会ったとき、俺の生涯のパートナーはきみだと確信していたよ。あの瞬間に俺は恋に落ちて、これが愛情なんだってすぐに理解できた。それはきみが――だからだったんだよ」 「そんな、そんなこと、」 「きみがなんと言おうと、俺の感情は俺にしか分からないし、俺にしか操れない。だから俺の気持ちを伝える手段はたった一つだ。……きみを愛してる。心の底から、今までずっと。この先もずっと」 「……夢を、見ているみたい……。だって、わたしだってあなたのことを、ずっと、ずっと……! ここで、毎日お帰りをずっと待っていたんです。あなたが安心できる場所を、わたしが与えられたらと思って、ずっと……!」 ……俺が、安心できる場所を――。 きみが俺を愛してくれるのなら、どんな場所であれ、そこが俺の楽園だよ。俺がそう言ってそっと重ね合わせるだけのキスをすると、は笑ってみせた。 それは俺が、ずっと求めていたものだった。それも、心底求めていたあの瞬間に見たものより、ずっと輝いている。いつか俺のこの人生が終わるときまで、何度でも見たい。俺は何度でも、この笑顔を目に焼きつけて失わない。 ただ、たった今が浮かべているこの笑顔が、きっと一番のものだろう。 |