終わった。すべてが。オレは結果に満足している。それでもたった一つ、気がかりなことがある。たった一つだけだ。けれどそのたった一つは、僕の暗闇を照らして輪郭を与えてくれる光だ。 それはオレたちが生まれるまえから決められていたことで、オレはそのことにちっとも不満などない。もそのはずだ。いいや、そうである。何も分からない赤ん坊のころから今までずっと、は僕の目の届くところより外へは出なかったし、僕もの手が届く距離にいつでもいた。オレが帝光へいくと決めたときにも、は黙ってオレについてきた。これからもずっとそうだ。彼女は僕が決めたことに口出しなんてせず、ただ僕のそばに寄り添うだけだ。 「赤司っちって、サン以外の女の子にキョーミないんスか?」 「ない」 聞かれてすぐにオレがそう答えると、黄瀬はさも驚いたというような顔をした。驚くことなど何もないだろうに。 オレととの関係は、誰もが知っている。バスケ部でこうして親しく話をする者はもちろん、校内でも知らないという者はいないだろう。生まれるまえから決められていることだし、赤司家と家のことだ。ここでは誰もがオレたちの関係に口出ししない。オレはの婚約者で、もまたそうだ。だからもちろん、黄瀬もこのことは承知であるはずが、なぜそんなつまらないことを聞くのか、僕には理解できなかった。逆に言えば黄瀬はそんな僕が理解できないようだった。 「えっ、でも色んな女の子に告られたりしてんじゃないスか。なのに全然ないんスか?」 不快と言うほどではないが、つまらない問答をしたくなかったオレは「あると言ってほしいのか? 言えばこの無駄な問答は終わりにするか? 黄瀬」と思ったよりも冷たい声音で言い放っていた。するとボールを片付けていた緑間が、「余計なことを言うな」と眉間に皺を寄せて黄瀬を制した。 「赤司にはがいる。これで十分だろう」 そうだ。を待たせている。こんなくだらない話に付き合っている暇はないし、何よりこういった話は苦手だ。 生まれるまえからとの関係は決まっていたし、不満はない。おまえが将来一緒になるんだと紹介されたときにも、なんの感情も疑問も持たなかった。そうであることが自然だと思ったからだ。 しかし黄瀬が不満げな顔をして、やはり理解できないとばかりに「でも緑間っちだって思わないッスか? 赤司っちってモテんのに……。あ、婚約者ってことで気ィ使ってるとか、親の目が、とかあるんスか?」などと食い下がるので辟易した。僕とが常に共にあることは自然なことだし、そうでないほうがおかしいと思うほどだ。幼いころよりそう教育されてきたからなのか、僕は黄瀬の言っていることこそ理解しがたい。 「……黄瀬君、その辺りでやめておいたらどうです?」 「だって黒子っち〜」 青峰は桃井と家族同士で食事をするのだと先に帰ったし、紫原も腹が減ったと早々に部室を出た。緑間は何も言わない。黄瀬はいつまでもこの無駄な話題で会話を続けそうなので、ここは黒子に任せようと帰り支度をさっさと終えた。 僕はに対して特別な感情は持たない。彼女が僕のそばにいる限りは。本当はいつでもどこへでも、オレの手の届かないところへ逃げ出すことができるのに、そうはしないからだ。は自分の意志でもって、僕のそばにいる。僕の目の届くところに、彼女の手が僕に届くところに。そうしているうちは、僕は彼女に対してなんの感情も持たずにそばにいることができる。何を感じずとも、が僕のそばを離れないのならそれでいいからだ。 ただ、もしも彼女が逃げ出そうという気になったのなら――僕はその手を掴んで離さない。そのことを知っているからこそ、は僕のそばを離れないのだ。どんな手を使ってでも、僕のそばから離れることは許さないと、僕は言外にほのめかしているから。 「」 唐突にその名前を呼んだ僕に、は自然に「はい、征十郎さん」と答えると、それから黙って僕の言葉の続きを待った。彼女はいつでも、僕に対して従順だ。だから僕は当たり前のように、確信をもって言う。 「おまえは僕のそばを離れないね」 はほんの少しばかり驚いたように目を丸く見開くと、ふふ、と笑った。子供の小さないたずらを見つけて、それをたしなめる母親のように。そうは言っても、僕には母親の記憶はあまりないのでなんとも形容しがたい。慈愛に満ちた――とでも言えばいいのだろうか。それも、僕にはよく分からないが。とにかく、は優しげに微笑んでいる。 「ふふ、どうしてそのようなことをお聞きになるのかしら。はどこへも行きません。征十郎さんのおそばに、ずっといます」 オレはその言葉にそっと息をついて、黄瀬の不満そうな――僕とが理解できないといった顔を思い出した。そういったことには興味がないし、当たり前と思っていたことだ。自分でもどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。ただなんとなく、帰り道の雑談として、つい先程のことを挙げたにすぎないだろう。しかし、オレはどこかで安心していた。 「そうか。……黄瀬に、君以外の女の子に興味はないのかと聞かれてね」 オレの言葉にはますます微笑んだ。 まるでオレをからかっているようでいて、真剣味も帯びていた。 「まあ。それで、征十郎さんはどうお答えになったの?」 「気になるかい?」 オレはのその言葉に、少しばかり口の端が持ち上がるのを感じた。オレがどう答えたのか、その答えが彼女にとって価値あるものなら、それは――と思ったからだ。 「それはもちろん。だって、征十郎さんはそんなことお話しにならないでしょう? 黄瀬君のお気持ちが分かります」 「……なんて答えたと思う?」 「ふふふ、私がどう答えたらご満足ですか」 「君にしか興味がないと答えたよ」 「それはようございました」 言葉遊びと言えばそうだった。けれど、そうでないと言えばそうでなかった。だからオレは言ったのだ。 「君ならどう答えた?」 はただただ微笑んでいる。いつでも、誰といても。オレといるときも。 「征十郎さんを除いて、興味を惹かれるものなんてありませんもの。同じようにお答えしますよ」 「それはよかった」 それは本心から出た言葉であったようで、僕も思わず笑った。小さな子供のころ、とうちの庭を駆けまわって遊んだことをなんとなく思い出した。 いつもオレの少し後ろを歩くが、隣に並んで顔を覗き込んできた。 「どうなさったの? 今日はなんだか……ふふ」 「いや、なんでもないさ。ただ、時たま君の気持ちを確認したくなるというだけだよ」 「おかしなことを仰るのね。家に損害がなければずっとおそばにいますわ、征十郎さん」 「そうだね。……君は、そういう人だ」 僕はに特別な感情を持たないが、それは彼女がどこへも行かない保証があるからだ。だから彼女がそう言ううちは、安心していられる。だから何も感じず、考えずにいていい。 も、オレになんの感情も持たない。 それは、僕とは違う意味合いだが。 「ふふ、本当におかしいわ。あなただってそうではありませんか」 「オレは――いや、なんでもない。君がそう言うのなら……僕は何事にも勝利するだけのことだ」 はっきりそう答えると、がぴたりと足を止めた。それから静かな声で、「征十郎さん」とオレを呼んだので、良くないことだと思った。 「なんだい」 それは時折聞く声だった。なんの感情もないといった、冷たい声だ。この声を聞くとき、オレはぞっとする。何に怯える必要があるのかと思えど、体は正直だった。 「もし私があなたのおそばを離れるときがきたら――」 「そんなことは起こりえない。僕は、敗北を知らない」 「……そうでしたわ。馬鹿なことをお聞きしました。お忘れになって」 控え室で着替えを終えると、他の者は早々に追い出してしまった。 彼女がここへ来ると、分かっていたからだ。 「征十郎さん」 「……か」 分かっていたことであったのに、オレはそれに気づかないふりをした。そのことをは感じ取ったはずだが、触れなかった。 「良い試合でした」 「……そう。ありがとう」 それ以外に、なんと答えればいいのか分からなかった。 オレは結果に満足はしているが、それがもたらすことには怯えていた。いつかの日の恐怖の意味が、今なら分かる。 「ねえ、征十郎さん」 忘れるようにと、あのとき彼女はそう言った。馬鹿なことを聞いたと。 彼女がこれからどうするつもりでいるのか、オレには――僕には、分からない。 ただ、僕はここで初めて、彼女へ特別な感情を抱いた。 いつまでも、どこへもやらない。 僕の手から逃れるだけの力が、君にあったとしても。 そばを、離れたりはしない。 オレが君のそばを離れないこと――どうか、許してほしい。 今度こそ、僕は何にも負けない男になってみせるから。 |