「さん! ひどいじゃあないですか! おれを置いてくなんてェ!」 「なんだって夜の街に高校生なんか連れてかなきゃなんないのよ」 「なんだっていいじゃあないスか。ここにさんがいるんスからァ」 「余計に性質が悪い。ガキはさっさとウチ帰ってクソして寝ろ」 「ちょ、ちょっとォ! 女がそんな口の利き方するもんじゃあねェぜ〜ッ!」 「うるさいわね、さっさと帰れって言ってんのよ」 さんはよく分からねえ外国産の煙草をスーツのポケットから取り出して、カチッとオイルライターを切った。ふぅっと吐き出された有害なくせして白っぽい煙に、おれは顔を顰めた。さんが煙草を吸う姿は、どうしても好きになれない。この人が早死にするとこは想像すらしたくはないからだ。 「仗助くんさァ」 「ハイ」 「なんでそうあたしに構うの? 年頃のかわいい女の子がいくらでも寄ってくるでしょ、その顔なら」 「そんなのには興味ねェんですよ。おれは純愛派ッス」 「なら尚のこと、あたしになんて構ってる暇ないでしょ。純愛したいならそれにふさわしい子を探しなさいよ」 さんはそう言って煙草をポイと地面へ捨てると、高いヒールでもってそれを踏み潰した。行儀悪い人だと思いながら、おれは何も言わなかった。この人はこういう人だからだ。それにおれがやめろと言ったところで鼻で笑って、若造に指図される覚えなんかないとか言うに決まってる。 そろそろ夜中って言ってもいいだろう時間に、おれとさんは出会った。さんはシャッターの閉まったなんかの店の前で一人蹲って、盛大に胃の腑のものを吐き出しているところだった。女がこんな時間に一人っきりで、おかしなやつに捕まったりしたら大変だと思ったおれは「大丈夫ッスか。水かなんかいります?」と声をかけた。まぁこの時点でおれもそういう目的の男だと認識されたって仕方ない。さんは何か――おそらく罵倒の言葉――を言いかけて、そのまま勢いよく吐瀉物を凸凹のコンクリにぶちまけた。こりゃあヤベェな、こっちのほうがよっぽど変なのに関わっちまったと思ったが、一度声をかけておいて――しかもあからさまに具合の悪い人間に――シカトなんてやってやれないので、その場にしゃがみ込んで頼りない背中を擦ってやった。さんはそんな状況でも恨めしそうにおれを見つめて、やっぱり何か文句を言いたそうだった。でもこんな状態の人が何をできるわけもないし、おれも何をしてやろうという気が起きるはずもない。おれはただ黙って、背中を擦り続けた。 そのうち幾分か楽になったらしいさんが開口一番「アンタ何が欲しいの」と言い放ったので面食らった。おれには親切からの行為だったので、見返りを求めていたと思われたんじゃあ立腹である。「そんなつもりでやったことじゃあないですよォ〜ッ! ただアンタ具合悪そうだったし、実際ゲロぶちまけちまったでしょうがッ」と反論すると、さんは笑った。「アンタ変わってるね。いくつ?」と今度は好意的な態度で質問してきたので、正直に高校生であることを伝えると、顔面蒼白で「家帰んなさいよッ!」と怒鳴りつけて高いヒールでよろよろしながらネオン街へと消えていった。その後を追うことは簡単だったが、おれにはできなかった。ついてくんじゃあねぇぞ、というドスの利いた声が今にも聞こえてきそうだった。 あの人はどうしてあんなところで一人で蹲っていたんだろう。随分きれいなおねえちゃんだったのに、あんな情けない姿で。酔っぱらっていたのはそうだろうが、介抱してくれる男がいないようには思えなかった。もう一度会ったら、もっとよく話をしてあの人という人間を知りたい。日に日にその欲求は大きくなっていった。ロクなことにならないだろうことはもちろん分かっちゃあいたが、それよりも若い好奇心のほうが勝った。 そして思い立ったら吉日と、向こう側には煌びやかな夜の街という入口に突っ立っていた。ねえお兄さん、いいお店あるよ。ねぇ、一人なの? 遊ぼうよ。だらしないとはまでは言えなくとも、着崩したスーツ姿の男やら、キラキラ派手に着飾った若いおねえちゃんに声をかけられても、おれはそこを動かなかった。しばらくそうしているうちに、あの日はシャッターの閉まった何屋なんだかよく分からん店の前で蹲っていたっけ、と思い出した。その店の前まで行くと、やっぱりシャッターは閉まっていた。見上げてみたが、看板はない。何屋だろうか。 そろそろ二十三時か、と腕時計で確認すると、おれはそこへしゃがみ込んだ。おれがどんな声かけにも応じず、閉まったシャッターの前で長い間そうしていたので、やかましいことはなかった。あの日のあの人のように、べろべろの酔っぱらいに見えなくもなかったかもしれない。いや、顔色は至って普通だし、訳アリと思われたのかもしれない。さすがにちっと寒くなったきたなァと思い始めたころ、その人は現れた。やっぱり具合が悪そうだった。 「ちょっと高校生。アンタ何してんの」 「今日も具合悪そうッスね、おねえさん」 チッと舌打ちをすると、薄い生地のコートのポケットから煙草を取り出した。それからまたチッとしたので、「ライター、ないんスか」とおれが言うと、ギラッとした眼差しで「そう。ホンットに最悪だわ」と言って小ぶりのバッグの中身をコンクリにぶちまけた。バッグがゲロしたようだった。ぎょっとするおれを余所に、「あっ」と言って親指二本分くらいの小さい箱を拾い上げて笑った。 「……マッチ?」 「マッチ」 さんはそう言うとすばやく煙草に火を付けて、ふぅっと煙を空中へと雲散させると「で?」と冷たい声音で言い放った。 「あんまり関わりたくないけど、アンタ名前は?」 「東方仗助」 「ふぅん。で、何してんの? 高校生が」 興味はないけど世間話くらいには付き合ってやってもいいよ。そういうことだとおれは捉えたので、「あんときゲロしたおねえさん、大丈夫かな〜ッと思ったんで」とニヤッと笑ってやった。さんはあからさまに嫌そうな顔をして、すぅっと咥えた煙草のニコチンを吸い込んだ。そしてそれをまた吐き出すと、地面に放ったままだった物をかき集めてバッグにしまうと、「いくら欲しいの?」と右手を左右に振った。財布が揺れる。なるほど、財布だけ中へ放り込まなかったのはそういうわけですかい。おれは本当に親切のつもりだったのに、こりゃあ参った。 「おれァそういうつもりじゃあないですよ」 「じゃあ何よ」 「おねえさんに会いたかったからって理由じゃダメなんスか?」 「ハァ?」 「あ、名前。名前教えてくださいよ」 なんでアンタに、と言いながらも、「」と短く気まずそうに答えた。このまま素直におれが帰るわけがないと気づいたらしい。 「さん。いい名前ッスね。かわいい」 「あらそう、どうも。で、いくら出したら帰ってくれんの?」 でも金でなんとかなると思ってるあたりが、この人ってきっと根っからの夜人間ってやつなんだろうなァと思った。夜って時間帯は大抵それでどう過ごすか解決できるからだ。少なくともおれはそういう認識でいる。さんは呆れてしまって言葉もないっていうような顔で、「じゃあ何、カラダ?」となんの恥ずかしげもなく口にしたので、おれは慌ててその口元を手のひらで覆った。 「なっ、なんつーこと言うんだよアンタァッ!」 「じゃあ何が目的なのよ。アンタがさっさと言わないからこっちがわざわざ言ってやってんでしょ」 俺の手のひらをパッと払ったさんは面倒そうに言った。だからおれはほんとうにただの親切心ってやつで、と説明しようとしたが、ん? と思案した。さんに会いたいと思ったのは、まず何が原因だ? たった一度、たまたま具合悪そうにしてる女を見つけて、それを通りがかったもんだからと助けた――とこの人もきっと思ってるはずだ、たぶん――だけである。それをどうして、待ち伏せたりなんてしてんだろうか。それはつまり、この人に何かしらの特別な感情を抱いてるってことじゃあないだろうか。そう思った途端、急に気恥ずかしくなって俯いた。湿った吐息が手のひらにじんわり残っているのに気づいて、きつく拳を作った。 「い、いや、おれはそういうんじゃあなくてですね」 「何よ、ハッキリしないわね」 そう言い捨てると、さんは急に口元に手をやってしゃがみ込んだ。まさかこりゃあ……と思う間もなく、あの日のように凸凹のコンクリの上に盛大に吐き出した。顔が真っ青だ。 「だっ、大丈夫かァッ?!」 「うっさい頭に響く」 「す、すんませんッ!」 「だからそれ! アァッ、痛い……」 こういうときゃァどうすりゃいいんだ、と頭を抱えたくなったが、やっぱりおれは「水かなんかいりますか?」なんてことくらいしか言えなかった。するとさんは口元をぐいっと右手で拭って、吐き出したもののとこへ吸っていたタバコを放った。ジュッと焼ける音がした。 「水なんかいらないわよ。ていうかなんの目的もなく親切心で世話焼いてくれたって言うんなら、さっさと帰ってよ」 「で、でもこんな状態でアンタほっとけるわきゃねェだろ」 「十も歳の離れたガキに面倒見られたかないの」 「は、」 「アンタ高校生なんでしょ? 酒浸りのババアなんかほっとけって言ってんの」 これを聞いておれがどう思ったかというと、この瞬間にこそおれは恋に落ちたのだ。酒浸りでゲロばっか吐いてる、十も歳の離れた女に。しかも見たところ、ニコチン依存症でもありそうだ。それでも、こいつァおれが面倒見てやるべき女だな、と思ったのだ。 今日も今日とて、おれはきらめくネオン街の入り口に一人突っ立っている。こういうときばかりは学ランでいるわけにもいかないので、ラフな格好をして。高身長な上に、半分は外国の血が入っているからこその大人びた顔立ちでは、誰もおれを咎めるやつはいない。だからこうして、健気にもあの人を待っていられるのだ。毎夜ここへやってくるのだ。ここで待ち伏せしていれば、彼女にはいつだって会える。昨日も、もちろん今日も。明後日だってそうだ。 雑踏の中心、颯爽と歩くさんの後ろ姿を見つけた。この人はこれからどこへ向かうんだろう。まだまだ白面のオレには分からない。けれどそれがどこであったとしても、オレはいつまでも追いつけないだろう。たった十年の空白くらい、これからいくらでも埋められるとおれが思っていても。彼女の中ではおれはいつまでも坊やで、これからまた十年経ったとしても同じことを言うに違いないのだから。 「さん」 さんがヒールの底を気にして立ち止まり、片足を上げて確認しているところ、そう声をかけた。彼女は、あらまだいたの、なんて顔をしながらも「何よ」と答えてくれたので、おれは笑って言った。 「連れてってくれねェって言うんなら、いつまででも待ってます。さんが帰るまで」 これには言葉もないという絶句の表情で、それから何か思案するようなさまを見せたあと、「馬鹿ね。早く帰んなさいよ、高校生」と今度こそ歩き出した。 |