俺の隣の席には、という女の子が座っている。 俺は彼女の両耳にこっそりつけられている、小さな赤いピアスがとても好きだ。 隣の席に座ってはいても、特に話をしたことはなかった。でもある日、とうとう話しかけた。そのピアスかわいいね、と。するとさんはものすごくビックリした顔で俺をじっと見ると――必要最低限の会話しかしたことないヤツから、急にそんなことを言われたら当然の反応だ――バレたら怒られちゃうから内緒ね、といたずらっ子みたいな顔して言った。 俺はその瞬間、彼女のことを好きになってしまった。 とは言ってもそれだけだ。好きになってしまった。でも、どうにもできないのだ。さんから直接聞いたわけではない(どう考えたってただのクラスメイトの俺が聞ける内容じゃない)。彼女には年上の彼氏がいるらしい。一部でささやかれている噂話によると、それもちょっとやそっとの年の差じゃない。ハタチを超えれば気にならないのだろうけれど、七才差だそうだ。更に言えば、その相手は教師らしい。これを聞いた俺は、うああああと頭を抱えた。さんという女の子は確かに、周りの女子と比べたらとても大人っぽい子だ。女子と仲が悪いわけじゃないし、お昼の約束をしていたり休み時間に話をしているのを見ないわけじゃないけれど、彼女はどちらかと言うと群れない一匹狼タイプなので、「ってなんか近づきにくいよな」「あと怖い。何考えてんだか分かんない」なんて男どもは完全に腰が引けている。相手は俺たちよりずっとか弱い女の子なのに。そしてさんはかわいい。でもそんなこと誰にも言わない。俺がそんなこと言って興味を持たせてしまったら、ライバルが増えてしまう。いや、ライバルも何もないんだけどね。噂は噂だけど、火のないところに煙はたたないって言うからね。 それでも俺は、彼女のことが好きだ。たとえ七才も年上の彼氏がいて、しかもソイツが教師だとしても。俺は彼女をそういう危険な火遊びから助けたいとか、そんなバカなことは思っちゃいない。だって、お互いに好き合ってるのなら仕方ない。それに外野が、やめろとかよくないよなんて言ったら、それこそ燃え上がってしまうかもしれない。 それに、彼氏がいる(らしい)女の子を好きになってしまった俺も、大概だ。 「おはよう」 「あぁ、さん。今日早いね、どうしたの?」 「先生と密会するから」 あぁ、そうなんだ。俺はそう言いかけて、ん? と思った。それもそのはずである。 「?! え!?」 「あはは、そういう反応されると思った」 噂、知ってるよ。さんはなんてことないようにそう言って、スクールバッグを机に置いてふふふ、とまた笑った。おかしくてたまらなくて、笑ってしまうのを我慢できない。そんな感じで。それになんて返したらいいのか、俺はさっぱり分からなかった。そうなんだ? いや違う。え、知ってたの? これも違う。それ、ホントなの? もっと違う。 「菅原くんはどっちだと思う?」 彼女は一体どういうつもりでそんな質問をするんだろう。俺は頭を抱えたくなった。 どっちが正解だ? そう考え込もうとしたところで、やめにした。 考えてどっちか決めてみたところで、一体どうなるっていう? 「……さあ、分かんないな」 それでも答えがほしいような、ほしくないような。複雑だ。知ってしまえば、俺の心を無視して、この恋は終わってしまうのだから。さんは俺の様子をうかがうように目を細めて、それから小さな声で言った。俺は発せられる言葉すべてを拾ってやろうと注意深く、耳に全部の神経を集中させた。 「本当だよ」 終わった。俺の恋はたった今、終わった。あっけない。 「半分ね」 「……ん? 半分ってどういう?」 「半分は半分」 ってことは、つまり? ……分かんない。 「……んん? 七才年上の彼氏?」 「違う」 「あ、先生?」 「違う」 ……分かんない。 「彼氏がいるってのが本当ってこと?」 「それも違う」 んんん? それって半分どころか全部違くない? 「ごめん、何が違って何が合ってんのか全然分かんない」 俺の理解力が足りないわけじゃないと思いたい。全然分かんないってば。 彼女の言葉をすべて拾うことには成功したけれど、それだけだった。意味はまったく拾えなかった。半分の本当が俺にとってどんなものであろうとも、分からなければ結局それまで。それなのに、彼女は薄く笑っている。ちょっとゾッとした。本当、一体どういうつもりなんだろう。ただ隣の席に座ってるだけの俺に、一体何を求めているんだろう。何にしても、やっぱり俺にとって良いものじゃないのは確かなのだ。耳を塞いでしまいたかった。 「付き合ってたよ。七才年上の先生と。でも、今はもう付き合ってない。こないだ別れちゃった」 さんの言葉に思わず、えっ? マジで! じゃあ俺にもチャンスある? なんてことを言いそうになってしまった。ただ隣の席に座ってるだけの、なーんも知らない男からそんなこと言われたら、さんはうえっ気持ち悪いと思うだろう。思うだけで言わずに済んでよかった! 悪い結果になるなら、何も進展しないほうがずっといいに決まってる。このまま卒業してしまったって、それはそれだ。今こうして彼女を好きだという気持ちも、いつかは相手を変えるはずだ。それでもきっといい。ただ、今の俺はさんが好きだ。それだけだ。 「そっかあ。今やっと意味分かった」 「あはは。よかった。あたし噂そのものはどうだっていいけど、菅原くんにそれが本当って思われたら困っちゃうから」 「……え」 それからさんは俺の目をじっと見つめて、言った。 「菅原くんは、あたしのこのピアス」 そう言って耳たぶに触れる。 「かわいいねって言ってくれたけど。あたしは菅原くんの泣きぼくろのほうが、ずっとかわいいと思うよ」 自分の頬がかぁっと熱くなったのは、すぐに分かった。 さんはそんな俺を見て、もちろん笑った。 「あたしは、好きだよ」 俺はまた何が正解なのか分からなくて、エサを欲しがる金魚みたいに、口をパクパクさせることしかできなかった。 部活、がんばってね。 さんはそう言って、さっさと教室を出て行った。 「おはよ」 「あ、あぁ、おはよう」 あれから、さんは毎日俺にあいさつするようになった。どういうこった。戸惑いを隠せないまま、でも喜びも隠すことはできなくて、俺は毎日複雑な気持ちでそれに返す。よく分からない状況だ。それなのに、さんは今日もかわいい。最悪だ。そんなことどうだっていいのに。彼女の意図が分からないのに、喜んでいる場合じゃない。 「……あれ」 「なに?」 「ピアス。どうしたの?」 俺とさんがこういう、よく分からない関係になったきっかけの、あのピアスが耳たぶにない。 やっぱり俺は結局彼女のことが好きで、あんなに小さなピアスの不在にすら気づいてしまう。やんなるよな、本当。 「気になるの?」 こんな風に遊ばれると分かっていても、俺は彼女のことを好きでいることしかできないのだから。 「……そりゃあ、毎日してるのに急になくなっちゃったらね。どうしたの?」 「あれ、元カレにもらったヤツだから、捨てたの」 「えっ!」 喧噪の中、俺の声は決して目立つものではなかったはずだけれど、さんは眉をしかめた。 「あれ、あんなに小さいのに結構高いものだから、もったいないなぁって思ったんだけどね」 じゃあなんで? 俺が聞く前に、さんは言った。 すがわらくん、ピアスのことばっかりきにするから。 なんだそれ。 きっと俺はなぁんにも気づかないふりして、そして笑ってみせるのが正解だ。 これは絶対にそうだ。言い切れる。でも、そうしてしまうには惜しいような気がした。 「似合ってたのに。もったいない」 さんは、そんなこと言うなんて想像してなかった、という顔をした。俺もまさかこんなこと言う気なんて、さらさらなかった。でも、ここは押してみるべきところじゃないか? 彼女のことを、好きなのなら。この状況を上から見ている俺が、そう耳元でささやいたのだ。だから、迷いはしたけれど言ってみたのだ。その価値があったかは分からない。 さんは考え込むように視線を左上のほうへ向けて、思い至ったというようにぱっと目を見開いてみせた。 「そっかあ、捨てないほうがよかったね。菅原くん、あたしのピアス、好きなんだもんね」 失敗しちゃったぁ。そんなこと言ってさんはすとんと席につくと、両手で頬杖をついてにこにこ笑う。……どういうこと? 「あたしのこと気にしてほしいから、元カレからもらったピアスなんていらないって思ってたのに。あ、もしかして菅原くん、そういうフェチ?」 「や、それは違う」 「ふぅん。でも、それでもピアスがあれば、菅原くんあたしのこと気になっちゃうんだよね。違う?」 違う。そう言いかけて、やめてしまった。言葉は喉元まできていたのに。 「そうかもね。でも、あのピアス本当に」 かわいかった。その言葉は、どうにも脳みそで止まってしまった。俺はさんに特別な感情を持っているのだ。うかつにかわいい、なんて口にしたら余計なことを付け足してしまいそうだからだ。そう、余計なこと。 俺は複雑な感情を抱きつつも、ただ隣の席に座っているだけの関係からこうして進展したことを、かなり重要視している。このままいったら、みたいなことを思ったりしているのだ。今のところ、こうして彼女に遊ばれているだけだけれど。 「本当に、何?」 「……似合ってたなって」 「そっか。でもさぁ、やっぱり毎日してたのに急になくなっちゃうって、変な感じだよね」 「そうだね」 俺の隣の席には、という女の子が座っている。 俺は彼女の両耳にこっそりつけられていた小さな赤いピアスが、とても好きだった。 隣の席に座ってはいても特に話はしたことがなかったのに、なぜだか遊んで遊ばれてという微妙な関係まで進展した。 俺は、彼女のことが、とても好きだ。 「ねえ、次のピアス、菅原くんが選んでくれる?」 俺の答えはもちろんこうだ。 「俺がいちばん好きだって思うものでいいなら」 |