彼はわたしのことがきらいだと言うが、わたしは別にそれでも構わない。彼がわたしを嫌おうが好こうがわたしは自分のことを変える気はないし、わたしのほうだって彼に変わってもらいたいなんてこれっぽっちも思わない。

 それはそうと、嗜好品というものはその人が好きで味わうものであって、本来なら必要ではないものを言う。ここで言う“必要”というのは“それがないと死ぬ”っていう意味と捉えてほしいのだけど、つまりわたしは煙草がなくたって死なない。だけどそもそも嗜好品ってものはみんなそういうもので、酒がなかろうがコーヒーがなかろうが煙草がなかろうがわたしを含めてどんな人間だって生きていける。ただ、“なくても死なない”けれど“あったら嬉しい”のだ。わたしの生活には煙草があるし、煙草を吸うことがわたしの生活なのだ。誰しも朝目覚めて最初にすることというのは、習慣化されているものだと思う。まずカーテンを開けて朝日を浴びるとか、顔を洗うとか。わたしはといえば、もうお分かりだろうが“煙草を吸う”のだ。そうしてわたしの一日は始まる。


 彼はいつだったか、懇々とわたしに説いたことがある。なんでも朝一に煙草を吸うと脳の血管がなんたらかんたらで、非常にアブないそうだ。ちっとも覚えてやしない。だってわたしは彼になんと言われても、この習慣を改める気なんてないのだから。彼がわたしを、きらいだと言っても。それでも彼はいつだって口喧しく、何度も同じことを繰り返す。今朝ももちろん自分の言葉に一切耳を傾けないと分かっているくせに、彼はわたしにこういう言葉を投げかける。

 「不健康極まりないな」
 「知ってる、もう何度も聞いたよ」

 わたしももう何度も繰り返した言葉を投げやりに返す。やっすい百円ライターを手に取って、何度もカチカチ音を鳴らす。ああ、もうオイルがない。

 わたしの煙草は“生活”という、生きている上で当たり前に繰り返す行為だもんでシュミではない。だから立派なライターは勿体なくって買おうと思わないし、使ってみようかと思ったことすらない。けれど、こうやってオイルが切れて何度試しても火が付く気配がないとなると、自分専用のライターっていうのもいいかもなぁなんて思ってしまう。実際のところ、煙草が吸いたい時に火さえ付いてくれればコンビニでカートンを買う時にもらえるのでも、飲み会で誰かからもらうのでもなんだっていいのだから、結局わたしにはいらないわけだけど。
 ああ、このライターはもうダメか。さっさと火を付けてしまわないと、彼がまた口を開いてしまう。

 「火が付かないなら吸わなければいいだろ」

 「(ほらね)吸わないんじゃないよ、吸えないの。火がないから。ああ、そうだ。どっかにマッチがあった気がするなぁ」

 「そこまでする価値がある? 体に害のあるものだって分かってるのに」

 ああ、うるさい。昨日はちっとも寝かせてくれなかったし、わたしはもともと血圧の低いほうだから朝はとんとダメなのだ。なのに今日は出かけようってこんな朝早くに――時計を確認したところ、まだ五時半だ――叩き起こされて、その上煙草すら吸わせてもらえないの? 第一ここはわたしの部屋だし、わたしは自分の一日の始まりには煙草を吸うって決めている。なのに火もない。

 「文句あるなら、うち来なきゃいいでしょ。わたしが煙草吸うのなんて、今に始まったことじゃないじゃん。何なら恭弥とより付き合い長いよ」

 「文句なんて言ってないだろ。……これだから煙草吸うやつは嫌いなんだ」

 そう言って彼は、苦い顔でため息を吐いた。
彼は、わたしのことがきらいなのだ。

 「また「ニコチンが切れると……」とか言い出すんなら、もう帰ってよ」


 ここらで紹介しておこうと思う。わたしをきらいだと言う、彼を。
わたしの彼の名は雲雀恭弥という。

 かれこれ十年ほど前の話になるが、この雲雀恭弥という男はわたしたちの母校である並盛中学校で風紀委員長をしていた。その頃から持ち物がどうの、スカート丈がなんのかんのとマジお前はわたしのかーちゃんかってくらい小うるさい男だった。そのくせ当の本人は「気に入らないヤツはまず暴力で黙らせる」っていういわゆる不良ってヤツで、なんでそんなヤツに校則違反とか規律がどうのとか説教されなきゃいけないの? って話である。それでもガチの不良相手にそんなこと言える子はいなかったし、言ったところで理不尽にボコボコにされるだけ。説明しなくても当時の並中の様子は想像に難くないだろう。あえて言うなら“ヒバリの恐怖政治”、だ。そういえば、わたしの一つ下の後輩も“喫煙”でよく恭弥に捕まっていた。獄寺くんという名前のその後輩は、どういう経緯だか知らないけれど今は恭弥と一緒の会社に勤めている。しかもそこの社長が、これまたわたしの後輩で獄寺くんの同級生の沢田くんだというから驚きだ。まあ学生時代から何かとつるんでいたようだし、縁があったんだなぁというくらいしか特別感想はないけれど。

 わたしと恭弥は学生時代は本当に赤の他人だったから、当時彼らに何があったかは知らない。ただ、並中を卒業して十年も経ってから街で“偶然”出会って恋に落ちた……というのは嘘なんだろうとは思う。わたしと恭弥の接点なんて、同じ中学出身ということしかないのだから。

それなのにあの日、恭弥はわたしの目の前に現れて言ったのだ。

 「やあ、久しぶりだね。元気そうで何よりだ」

 はあ? あんた誰? って返したわたしの反応は当然で、ぜんぜん間違っていなかったと思う。そうしたら恭弥ってばものすごく不機嫌そうな顔して「僕のこと、分からないの?」なんて言うもんだから、やっぱり仕組まれた“偶然”なんだろうとわたしは今でも思っている。


 まあどんな再会だったにしろ、それがあって今こうして付き合っているわけだ。しかしわたしは愛煙家で、恭弥は嫌煙家。わたしの嗜好品で、わたしの人生のパートナー、そしてわたしの永遠の恋人であるマールボロ。

 恭弥がその存在を知ったのは、付き合って初めて彼がわたしの家へあがった時である。片付けておくべきか最後まで悩んでいた灰皿を見て、恭弥はなんとテーブルをぶっ壊した。今でも思い出すと涙が出そう。あのガラステーブルは、わたしが仕事をするようになって初めてもらったお給料で買ったものだった。縁取るように繊細な天使の絵がうすく彫られていて、光の加減できらきら光るのがとっても素敵だったのに。恭弥は灰皿をみた途端、人が変わったように――と言っても学生時代の“ヒバリ”を知っているので何とも言えない。ただ彼は、わたしには優しくしてくれているとだけ言っておこう。その恭弥が、わたしの目の前でその素敵なガラステーブルを足蹴にした。ちょっと何するの?! とわたしが激昂して掴みかかっても、唇を真一文字に引き結んで黙っていた。その間、彼の足と拳だけが雄弁だった。最終的にはどこに隠し持っていたのか、並中生に恐れられた“トンファー”でぶっ壊してしまった。ずっと大事にしようと決めていた、わたしの素敵なガラステーブルを。




 その後お互い落ち着くまで、ずっと無言だった。正確には、無言であったのは恭弥のほうだけだ。わたしは嗚咽交じりに恭弥への恨み言と、テーブルに対する謝罪をぶつぶつ呟いていたので。

 それからしばらく、わたしの涙も止まったので話をすると、彼はわたしの浮気を疑っていた。この時、付き合ってまだ一月かそこらである。その程度の付き合いで浮気するんならいっそのこと乗り換えるわ! と思ったけれど、本当に思うだけにしておいた。まぁつまり、わたしが煙草を吸う事実を恭弥に教えていなかったわけだ。

「……あの、煙草を吸うのは浮気相手じゃないの。というか浮気してない。というか、煙草はわたしが吸ってる」

 わたしがこう言った時、恭弥は信じられないっていう顔をしていた。あんな顔、後にも先にもきっとないだろう。少なくとも、わたしが見られる機会はなさそうだ。

 「僕はいもしない君の浮気相手のおかげで、この通り血まみれだよ。仕事ができなかったらどうしてくれるんだい」

 「でも、君が僕に誤解をさせたんだからね」

 「ああ、今日は泊まろうと思ってたのにな、誰が片付けるのコレ」

 浮気の疑惑を晴らせたのはよかったけれど、散々に言われた。もちろん後片付けはわたしがした。その間、恭弥はじっとソファに座っていた。わたしが証拠として差し出したマールボロと百円ライター、それからその三日ほど前に参加した飲み会の写メを映した携帯と一緒に。
 病院行けって言ったのに、行かなかったのは恭弥である。わたしは悪くない。その場で「応急処置は自分で出来るし、あとは放っておけば治るよ」となんてことない顔していた恭弥の責任だ。

 まあそんな事件があってわたしが愛煙家というのを、恭弥は知った。初めのうちは「あまり吸いすぎは良くないよ」とか、「吸うならベランデで吸って」とかっていう程度の話だった。わたしも、恭弥が煙草そのものを好かない人なんだろうということは察していたので大人しく従って、恭弥の前ではあまり煙草を吸わないようにしていた。うちで吸う時もベランダに出て、きっかり一本しか吸わなかった。けれど、毎日のように恭弥がうちにいるようになれば話は別だ。昨日だって、「今日でやっと仕事が落ち着いて、ゆっくりできる」とメールすればすぐさまやってきた。あれは「会いたい」っていうんじゃなく、「そういうわけだからそっとしといてね」って意味だっつーのに。

 そもそも恭弥んとこの会社はどうなっているんだろうか。わたしだって恭弥と同じく社会人なのに、どう考えても彼の生活パターンには規則性がなさすぎる。デート中に突然「仕事だ」って言って帰ってしまったと思ったら、それから一ヶ月音信不通なんてザラなのだ。そのくせ、「しばらく会えない」とか言って(わたしの部屋から)出勤したと思えばその日のうちに帰ってくることもある(わたしの部屋に)。仕事の内容なんて知りたくもないから聞かないけれど、不規則な上に拘束時間もまちまちだなんて一体どういう仕事をしてるんだろうか。知りたくはないけど、気にはなる。だってある程度規則性のある生活をしているわたしと恭弥では、体調もテンションも同じようにはならない。その上ほとんど毎日嫌煙家がうちの中にいるんじゃ、煙草を吸うのにだってこんなに面倒なのだ。

 恭弥はわたしのことがきらいだと言う。煙草を吸うわたしがきらいだと。でもそんなことを言われたって、わたしにも恭弥の関わらない生活というのがあるのだ。仕事に追われて修羅場もあるし、修羅場で頭おかしくなってる上司に八つ当たりされることだってある。友達とケンカしちゃうことだってあるし、恭弥がいない日に限って寂しくなることや急に暗いことを考えてしまうことだってあるのだ。恭弥の知らないわたしの生活だってあるのだ。そんなこと言うならこっちだって、「煙草を吸うわたしのことがきらいな恭弥がきらい」だ。ここはわたしの部屋なのだ。愛煙家の部屋に自分で入り浸ってるくせに、煙草を吸うななんて攻撃される謂れはない。ああ、やっぱりわたしの理解者ってのはおまえだけ。マールボロ、わたしの永遠の恋人。




 そうして一月ほど前に参加した飲み会を思い出して、その時に使ったバッグのポケットを漁っていると、マッチ箱を見つけた。このお好み焼き屋さん、おいしかったなあ。ちょっとぶさいくな猫ちゃんが、こっちを見て笑っている。

 「マッチで吸うとちょこっと違うんだよね、ライターと」

 マッチを擦った瞬間には、わたしはもうぜんぶ忘れてしまった。だってわたしの“今日”は、これから始まるのだ。




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