「あ、見て。さんだよ」

 俺に熱心に話しかけていた女の子たちの一人がそう言うと、みんなの視線――もちろん俺のも――がそちらへ動いた。彼女の動きに合わせて、キレイな黒髪が揺れている。今日もカンペキだ。全てが美しい。

 「やっぱりいつ見てもキレイだよねえ、さん」
 「及川くんとさんて、ほんとお似合いだよね」

 お似合いだよね。そんな風に言われるたび、俺は喜ぶべきか悲しむべきかいつも迷う。その結果、いつもの笑顔で言うのだ。そうかなぁ。ありがとう。
 ――ありがとう。この言葉に嘘はない。嬉しいと思っているのは本当だからだ。けれど、喜んでいいものではないと思う。だからといって悲しむかとなると、それはイヤだ。

 俺とさんは付き合っていない。それどころか特別親しくもない。そもそも直接話したことがない。けれど、みんなが言う。及川くんとさんてお似合いだよね。その理由? なんてことはない。容姿の釣り合いがとれているという意味、ただそれだけだ。尤も、俺はそんな畏れ多いことちっとも思っちゃいないけれど。

 容姿は整っているほうだという自信はある。色々と見る目のキビシイ女の子たちが、頬をピンク色に染めて俺を囲むのだ。体育館では毎日、俺を応援する黄色い声が飛び交っている。告白だってしょっちゅうされる。これでモテないなんて言ったら、それは謙遜じゃなくイヤミだ。俺は、女の子にモテる男だ。

 そしてさんは、男にモテる女の子だ。ただ、俺とは違う。さんは俺のように騒がれたりしないし、誰かに呼び出されたという話も一切聞かない。俗な俺とは違うのだ。彼女は雲の上の存在っていうヤツで、そんな相手にうるさく付きまとえるはずもないし、告白なんてもっての外である。だから誰しも、こっそりと彼女を恋い慕う。そう、誰しも。

 付き合っているわけでも親しいわけでもない。そもそも話したことさえない。
けれど、もしかしたらさんも耳にしているかもしれない。
 及川徹とお似合い。そうだとして、彼女はどう思っているだろう。まさか喜ぶわけがない。やっぱり、「誰それ」から始まって「気持ち悪い」で終わるような感想だろうか。当然だと思うけれど、本当にそうだったらショックだ。俗人の俺が望んでいいことではないけれど、「誰それ」から「どんな人かな」で終わって、俺に興味を持ってくれたりしないだろうか。そうなってくれたら、もしかしたらって夢を見ることができるのに。



 それは突然だった。

休憩に入ると、二階から女の子たちが俺に声を掛けてくる。俺はいつも手を振って応えるのだけれど、できなかった。女の子たちの視線は、体育館の出入り口のほうへと向いていた。一体何があるんだろうとそちらへ視線をやると、さんがいた。こちらをじっと見つめている。視線が交わったように思ったけれど、それは俺の都合のイイ勘違いだ。
 じろじろ見るものじゃない。失礼だ。おこがましい。
 汗を拭っている岩ちゃんに何か話を振ろうと口を開きかけたとき、「あの、岩泉さん」と走り寄ってきた国見ちゃんが早口に言った。

 「どうした」
 「三年のさんが岩泉さんを呼んでくれって」
 「が? 分かった。ありがとな」

 国見ちゃんは小さく会釈すると、一年の集団の中へ戻っていった。大はしゃぎしている仲間に迎えられた国見ちゃんの横顔が、なんだか眩しい。たとえ伝言であろうと、あのさんに声を掛けられたんじゃあ英雄にもなる。テンションだって上がるに決まってる。
 いつもの無気力っぽい(実際のところはそうでもない)顔が、満面に笑みを浮かべている。……いいなあ。でも、そんな国見ちゃんよりもずぅっと羨ましい。

 「……岩ちゃん、さんと知り合いなの?」

 とんでもなく情けない声だった。
なんだか、岩ちゃんに裏切られたような気持ちだ。それに、さんにも。
 みんな――俺も岩ちゃんも、俗人だ。
さんだけが天上の人だ。それなのに。

 岩ちゃんは眉間にしわを寄せて、「委員会が一緒なんだよ」と面倒臭そうに言った。なにそれ、ズルイ。岩ちゃんて何委員だったっけ。なんだっていいけど、さんと一緒なら俺もそれにしておけばよかった。ホント、何委員だろう。そもそも岩ちゃんはどうしてさんと同じクラスなの? ズルイ。そういえば二人は、三年間ずっと同じクラスだ。俺は一度だってクラスメイトになれなかったのに。チャンスはもうないのに。俺がその立場にありたかった。今更こんなことを嘆いたって仕方ないけれど、だからこそ全部全部ズルイ。

 さっさと歩き出した岩ちゃんを、俺は黙って追いかけた。
 さんと岩ちゃんて、どういう関係なんだろう。委員会が同じってだけじゃない。クラスメイトってだけじゃない。だって、みんながみんな、彼女のことを地上から見上げて“さん”と呼ぶ。誰も、彼女に親しげに声を掛けたりなんかしない。それなら?

 「、どうした?」
 「ごめんね、練習中に」

 さんの声を聞いたのは、これが初めてだ。背筋がぶるっと震えた。思っていたよりも可愛い声だ。もっと冷たそうなものを想像していた(悪い意味じゃない。クールと言えばよかった)。どくどくと血流を感じる。どうしよう、目眩がしそうだ。
 遠目からでもカンペキな彼女が、こんなにも近くにいる。手が届いてしまう距離に。やっぱり美しい。俺にはこれしか言えない。だってふさわしい言葉なんて、俺は知らない。この世にあるとも思えない。
 言葉では表現できない代わりに、俺の心臓が答えているように思えた。
これを人に見せることができるのなら、少しは伝わるかもしれない。
けれど、誰にも知られたくない。

 「委員会のことなんだけど――」

 話の内容なんてなんだっていい。俺に向けられたものじゃなくたっていい。
ただ、この声を聞くことができるのなら。
 会話する二人の姿を視界に入れながら、さんの声に集中した。
 さんはやっぱり天上の人だ。彼女の周りだけ何かが違うだろうことは分かりきっていた。
そこだけが俗世とは切り離された別世界だ。
俺は今、どこにいるんだろう。背後はいつも通り、騒がしかった。



 「……岩ちゃんさあ」
 「先に言っとくがとはなんもない」

 岩ちゃんはきっぱりとそう言ったけれど、俺は決して受け入れない。そんなことできるはずがない。相手が他の女の子だったなら、へえ、そうなの? かわいい子だったのにもったいないなぁなんて言って、からかったりしたかもしれない。でも、相手はさんだ。誰もが遠見するしかない、あのさんだ。

 「なんもないのになんで馴れ馴れしく呼び捨てにしてんの」

 ズルイ。口には出さなかった。何言ってんだオマエ。バカじゃねぇの。
そういう顔をするに決まってる。

 「馴れ馴れしいも何もねぇだろ。同じクラスだし、同じ委員会だ」
 「それだけじゃん。……なのに、ズルイよ」

 結局口に出して、岩ちゃんは想像通りの表情で俺の頭に拳をぶつけた。

 「何がだよ、バカか! つーかお前、あれだけボケッとしてた理由がだったって言うなら殴るぞ!!」

 「もう殴ってるじゃん!!」

 ぎゃあぎゃあと騒いでいたのに、透くようなその声はしっかり耳に届いた。

 「岩泉くん」

 振り返ると、俺はぽかんとしてしまった。

 「……え」
 「! おい、お前なんでこんな時間にまだ残ってんだ!」

 岩ちゃんの声が、びりびり空気を震わせる。俺はそれでもぽかんとしたまま、さんから目を離すことができなかった。それからはっとして、視線を自分の足元に落とした。あぁ、いけない。彼女のことをそんなにも見つめたら、俺は。

 「ちょっと、及川くんに話があって」

 及川くん。それは俺のことのはずなのに、そうとは思えなかった。だって俺とさんはまったくの他人で、俺はさんみたいな人に話し掛けられるようなヤツじゃないのだから。俺の聞き間違いだ。そうに決まってる。あまりにも透明な声だから、俺にはその向こう側が見えてしまったのだ。別世界の向こう。それは現実だ。

 「及川ァ? 明日でもよかったじゃねぇか、そんなもん」

 岩ちゃんの声が聞こえるここは現実だ。俺たちが住んでいる世界だ。
 さんは今、どんな顔をしてるんだろう。それでも俺は、視線を持ち上げることなんてできない。それは知ってしまうのが怖いというのと、じっくり彼女を見ることのできる距離にいる至福を味わってしまってから、その夢から覚めたときの耐えがたい悲しみと向き合うことができる自信がないからだ。

 「そうなんだけど……あまり目立ちたくないし。少し時間もらってもいいかな、及川くん」

 それでも、俺の耳はさんの声を聞き洩らすことなんてなかった。
そして、彼女からの言葉をダメだと突っぱねることも、できやしない。

 「えっ、あ、う、うん!」

 嘆かわしくも裏返った声だった。岩ちゃんが俺の背中をバシンと叩く。痛い! なんていつもの調子で言えるはずもなく、俺は黙ってしまった。すると、「シャキッとしろグズ川!」と岩ちゃんは俺を叱りつけた。情けない。さんにこんなところ、見られたくなかった。俺の視線はますます足元に縫い付けられてしまう。
 はあ、という岩ちゃんの重い溜息が恐ろしい。
これ以上は勘弁してほしいのに。俺の心が身構えする。

 「……先帰る。お前、のことちゃんと送ってけよ。、もしコイツがなんかしてきたら遠慮なくブン殴れ。じゃあな」

 さんの前で叱られるよりも、こっちのほうがよっぽど堪えた。俺が心底羨ましいと思っていたことが、起こってしまったのだ。何かなんてできるわけない。それどころか、今こうやってさんが俺の目の前に立っているということに、息が詰まる。苦しくて仕方ない。この状態で何ができるって言うのか。

 岩ちゃんは俺とさんに背を向けて、すたすた迷いなく去っていった。待って岩ちゃん置いてかないで! その背中に縋りつきたい思いだった。けれど、及川くん、と俺を呼ぶさんの声に抗うすべなど俺にはない。あのさんが、俺の名前を呼んでいる。
 ゆっくり、視線を持ち上げていく。そして彼女に向きなおる。俺はいつのようにへらっと笑ってみせようとしたけれど、そんなことできるわけなかった。ここは、別世界だ。

 「ごめんね、部活で疲れてるのに呼び止めたりして」
 「……ううん、大丈夫」

 会話は続かなかった。さんが何か話し出す様子もない。俺から気安く話し掛けることなんてできないのに、さんはじっと俺を見つめるだけだ。

 「思ってたのと違う」

 唐突に、さんは口を開いた。どくん、と心臓が音をたてる。
どくん、どくん。イヤな感じだ。怖い。

 思ってたのと違う。それはどういう意味だろう。話したことなんて一切なかった俺を、さんは知っていたらしい。名前と顔を一致させて。しかも、俺に何かしらのイメージを持っていたと言う。どういう、意味だろう。俺は何も言えなかった。だってきっとロクなもんじゃない。俺はいつでも女の子に囲まれていて(イヤミじゃない)ファンサービスも怠らない。俗なアイドルだ。実体のない偶像。

 さんは天上の人だ。

彼女の実体は分からない。でも、俺みたいに空っぽじゃないのだけは確かだ。彼女からして、俺は一体。聞きたいと思わないでもないけれど、聞きたくなかった。聞いたらおしまいなのだ。ユメすら見ることができなくなってしまう。

 「及川くんが私とお似合いだって言われてるの、私が知ってるんだから知ってると思うけど……。私、あなたと話したこともないから」

 「う、うん。あの、ごめんね、そんなことになってて」

 やっぱり。俺は納得だった。当然だ。話したこともない全くの他人とお似合いだなんて言われて、しかもその相手が俺みたいなチャラチャラしてるヤツなら仕方ない。俺がその立場にいても、きっと同じことを思うだろう。それなのに、俺はなんて恥ずかしいことを夢見ていたんだろう。さんと俺じゃ釣り合わない。そのことは、分かっていたはずなのに。

 「私のほうこそ、ごめんなさい」

 「え、」

 「及川くんにも、及川くんの彼女にも悪いから。ごめんなさい。私、特別仲の良い子っていないから、訂正しようにもどうもうまくいかなくて」

 さんはもう一度、ごめんなさいと言った。悲しかった。

 「俺、彼女いないし……訂正してないの、俺もだし」

 声が震えた。考えるよりも先に言葉が飛び出した。もっと気の利いた――それがどんなセリフかも分からないけれど、何か他にあったはずだ。他の女の子相手なら、たとえ思ってもいない言葉でもうまく操れる。いつも、どんなときでもそうできた。それなのにどうして肝心なとき、俺の頭は仕事をしてくれないのか。言ってしまってからは冷静に働いてくれたけれど、もう遅い。

 さんは不思議そうに小首を傾げた。

 「そうなの? 及川くんいつも女の子に囲まれてるから、あの中に彼女がいるのかと思って」
 「いや、いないよ」
 「そう、ならよかった」
 「うん」

 また会話が途切れた。



 沈黙を破ったのは、やっぱりさんだった。

 「私、一度及川くんと話してみたかったの。でも、いつも女の子と一緒だし、話し掛けづらくて」

 事も無げにそう言った。

 「え……」

 「話したこともないのにお似合いだなんて言われてるから、どんな人なのかなって。今日初めて間近で見ることができたのに、一言も話さずに終わっちゃうのはもったいないと思ったから。だから、迷惑だとは思ったけど、待たせてもらったの」

 「迷惑じゃないよ! あの、俺もその、さんと、話してみたくて。でも俺なんかが声掛けたら迷惑だし、それに、」

 その続きは言わせてもらえなかった。
そうでなくても、何を言おうとしたのかふっ飛んでしまった。

 「及川くん」
 「は、はい!」

 さんは口元に手をやって、ふふふと笑った。
暗闇に浮かぶほどに白く細い指先が、体をカッと熱くさせるような気がした。

 「及川くんて、可愛い人だったんだね。私には手が届かない人だと思ってた。……もっと早くに、声を掛けておけばよかったな」

 さんはほんの少しだけ寂しそうな顔をして、帰るね、とさっさと歩き出してしまった。
俺はその背中を追いかけることができなくて、翌日岩ちゃんに拳で説教された。



 「及川くんっ! さんが及川くんのこと呼んでるよ!」

 クラスで(ほどほどに)仲のいい女の子が、興奮した様子で机をバンバンと叩いた。
あれ、このシチュエーション。
 親しげだった岩ちゃんとさんのツーショットを思い出す。
そして、さんと俺、二人っきりの別世界を思い出す。

 あれから一週間ほど経ったけれど、俺は未だに夢の中にいる。あの日の夜は眠れなかった。さんと会話したこと、あんな時間に女の子――それもさんのような人――を一人で帰してしまったこと、すべてのことが信じられなかった。だって俺は俗人で、彼女は天上の人だ。俺みたいなヤツのために、彼女が天から下りてきただなんて身のほど知らずなこと、もちろん思っちゃいない。けれど、さんの声が耳から離れなかった。
 可愛い人だったんだね。もっと早くに……。それから彼女は、こうも言っていた。
 私には手が届かない人だと思ってた。

 全部ユメだと思った。俺はすべてのことが信じられなかった。岩ちゃんに殴られたとき、やっとユメから覚めるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかったから更に信じられなかった。
 夢を見たいとずっと思っていたのに、それが叶ってしまったら、あれが全部ユメだったら安心できるのにと思ったのだ。

 さんの姿が目に映るたびに、俺の心臓はどくどくと、気持ち悪くなるほど高鳴った。さんと及川くんてお似合いだよね。この言葉にどう返したらいいのか、分からなくなっていた。
そしてこれだ。頬が熱っぽくなってくるのがよく分かってしまう。
 ありがと。そう短く返して、俺は足早にドアへ向かった……はずだ。
一歩が重く感じたし、その動作の一つ一つに、長い時間を使っているような気がした。

 「ごめんね、及川くん」

 何を謝るんだろうと思ったのは一瞬で、さんは目立ちたくないと言っていたことを思い出す。俺も同じだと思っていたらしい。そんなことあるわけがないのに。いや、でも。けれど、周りがざわざわといつもとは違う騒がしさに切り替わったのが分かったので、場所を変えようと連れ立ってその場を離れた。さんが俺の隣に並んで歩くので、左肩が痛いくらいにじんじんした。



 「目立ってしまうのは、お互いに良くないことだと思ってたんだけど……」
 「……う、うん」

 さんは少し躊躇うような様子を見せると、それから遠慮がちに口を開いた。ちらちら視線を彷徨わせる俺は、さんにはどう見えているだろう。きっとつまらない男だと思われてるに違いない。彼女の瞳で確認するような勇気は、俺にはなかった。

 「ごめんなさい。あれから、私なりに色々考えてみたの」

 ごめんなさい。畏くもさんに告白なんてそんなもの、考えたこともない。
ないけれど、フラれてしまった。当たり前のことだというのに、切ない思いでいっぱいになった。

 「う、うん」

 情けない声だ。震えてすらいる。このままさんの声を聞いていたいのに、何も聞きたくない。 他の誰かにこんな気持ちを知られたら、きっと憤慨される。分を弁えずに何を言う! 俺もそう思う。それでも、こんな胸が締めつけられるような思いには耐えられない。辛くて苦しくて、死んでしまう。

 呼吸できずに心臓が止まって、この場で命が終わってしまう覚悟すら決めた。けれど、さんの次の一言でそれはやめた。いや、違う意味で死んでしまうかもしれなかった。

 「及川くんと、お友達になれないかなって」
 「う、うん。……え」

 今度もまた、情けない声だった。呆けた、バカみたいな声だった。
 あまりにもさんに心を寄せているから、きっとおかしくなったのだ。さんの言っていることはすべて、俺の妄想だ。一週間前のユメの続きを作り出してしまったのだ。そうでなければ、これは一体なんだっていうんだ?

 「周りに流されるだけじゃいけないと思ったのよ。だって私たち、お互いのことをなんにも知らないし、お似合いだなんて言われたって困るでしょう? でも、私はあなたのこと、よく知りたいの。だから、お友達になれないかなって。もちろん断ってくれて――」

 「いいの?」

 パニックを起こしつつも、俺は食い気味にそう答えた。そうでもしなけば、目に見えないほど細い糸は簡単に切れてしまうと分かっているからだ。
 え? というさんの言葉に被せるようにして、俺は続ける。こんな奇跡、手放せない。

 「お、俺なんかがさんの友達になって、いいの?」

 俺を見上げるさんの瞳は、甘く潤んでいる。
俺がどう映っているかの確認なんてする余裕は、もちろんなかった。
 初めて、さんの目をまともに見てしまった。視線はすぐに逸らした。
そうする以外、何ができる? どくん、どくん。心臓を握られているようだ。
 さんは分からないという顔をして、困った調子の声で言う。

 「それを言うなら、私のほう。いつもたくさんの人に囲まれてる及川くんのお友達なんて、私には相応しくないと思うけど――」

 「そんなことない!!」

 つい大声になってしまった。休み時間には人なんて通らないこの廊下では、大きく響く。
さんは少しも動じなかった。
 何をどう言えば、俺の気持ちは伝わるんだろう。
いや、俺なんかの感情はさんにとって無価値だ。彼女に知らせるようなものではない。
分かっているのに、俺の口は持ち主の意思を無視した。

 「俺は、ずっとさんのことが好きで、でも話し掛けたりなんてこと、できるわけなくて……。だって、俺みたいなヤツがさんみたいな人のそばにいるだなんてこと……どう考えたって無理に決まってて、でも、俺はずっとさんのそばに立っていたいって、思ってたんだ。さんのそばにいて、できれば……」

 言葉と一緒にどんどん俯いていった。
泳ぐ視線の中にさんを捕らえることは、もうできない。
やっぱり俺は、死ぬのかもしれない。

 「……できれば?」

 さんはそう言って、俺の顔を覗き込んだ。
 ダメだ。もうダメだ。

 「……そばに、いて……さんの、特別に、なりたいって……。こ、こんなこと言われても気持ち悪いよね! ごめん、今のは全部忘れて!!」

 もう、ダメだったら。

 「どうして?」

 泣き出してしまいそうだった。目頭が熱くなって、鼻の奥もツンとする。
けれど、さんの言葉を突っぱねることなんて、やっぱり俺には無理なのだ。

 「ど、どうしてって……俺は、こっそり、見ていられるだけで、よかったのに、こんなの……」

 こんなの、ユメだ。信じられない。だって俗人の俺は、こっそり遠目から見ていられたら、それだけでよかった。それ以上が現実になるだなんてこと、望めるはずもなかった。そうなったらいいというユメを見られるだけで、よかったのだ。
 みんながみんな、さんのことを地上から見上げている。俺もその中の一人だ。
みんながみんな、こっそり恋い慕う。俺もその中の一人だ。ありえないユメを見るだけで、充分だった。これは、俺の都合のイイ勘違いだ。だから、そんな風に俺を見ないでくれ。そうじゃないと、俺はまたユメを見てしまう。身のほど知らずなユメを。

 「……お友達に、なってくれる?」
 「……うん。俺も、なりたいよ」
 「ありがとう。身のほど知らずなユメが、叶っちゃった。……これからも、見させてね」

 さんはそう言って、俺の両手をそっと包んだ。あの白い指先が触れている。
 それじゃあ、と彼女はさっと手を離した。

 「いい夢を」

 離れていく凛とした背中に、声を掛けることはできなかった。その場にしゃがみ込んで、熱を冷ますようにと両の手のひらを頬に添える。冷めるどころか、気を失ってしまいそうだ。

 「いい、夢……」

 俺はどこにいるんだろう。ユメの中? それとも、あの別世界? 現実?
 さんは、どこにいたんだろう。天から下りてきてくれたのか、俺が天上へ招かれたのか。

 どこであったとしても、俺はもう帰れない。





photo:十八回目の夏