どうしたって俺は、彼女のしもべだ。 「綱吉くん」 この声を聞いただけで、どんな望みであれ叶えてあげようという気になってしまうのだ。それがどんなものであれ、俺にとって苦しいだけのものでも、なんでも。 「あぁ、さん。来たとは聞きましたけど、驚いたな。何かありました?」 「なんにも。ただ、綱吉くんの顔が見たかっただけ。突然お邪魔してごめんね」 彼女がこんなことを言い出すとき、“なんにも”ないなんてことはない。 “なんにも”なかったら、俺のとこへなんか来るはずないのだから。 俺とさんとの関係は、明白だ。けれど、ひどく曖昧だ。 ただ、たった一度。たった一度だけ寝ただけの関係。 それもディーノさんに対する当てつけのためだけに。 俺はそれを断ることもできたし、当然そうするべきだったけれど、そんなことできやしなかった。だってその時には既に、彼女の望むことならなんでも叶えたいと思ってしまっていた。 キャバッローネとの同盟のこと、ディーノさんとの関係を考えなかったわけじゃない。でも、それ以上に彼女のことが愛しかった。俺は、彼女のしもべなのだ。 俺にはなんの見返りもない。なんの望みもない。それでも。 「ねえ、あの日のこと、後悔してる?」 さんは唐突にそう口にした。あの日。間違いなく、俺と寝たあの日だろう。まだ太陽の高い時間、俺の執務室。あの日、俺たちは――。 そこに愛なんてものは――少なくとも彼女には――存在していなかった。それでも俺はよかった。目の前であの日のように微笑む彼女の望みを、他の誰でもない俺が叶えられるのなら。この人の一番になれないのは分かりきっていることだ。それでもいい。 さんが誰より――ディーノさんより、俺を頼りにしているのだという確信があるから。そこに愛はなくとも、彼女がまず頼りにするのは俺だということだけで、俺は満足なのだ。 彼女の恋人にも、夫にも、決してなれやしなくても。 さんが俺の言葉を待っている。 どう答えるのが、この人の望みだろうか。 一瞬俺はそう思って、やめにした。 さんが“こうして”ほしいというまで、俺はなんにも考えずにいていい。 俺は黙って、さんが口を開くのを待った。 「ねえ、後悔してないって言って」 「もちろん。後悔なんてしたことないですよ。他の誰でもない、あなただから」 「私がディーノの妻だとしても?」 「そうだとしても、俺は後悔なんてこれっぽっちもしてない」 さんの唇が、ゆっくりとカーブを描いていく。そうだ。俺は彼女の望みすべてを叶えたい。このことがどんな結果を生むとしても、俺は本当に――後悔なんてしないだろう。さんにとっては“なんにも”ないことだったとしても、俺には愛がある。この人に対する、愛が。 それをさんは分かっているからこそ、俺を頼りにするのだと分かっている。都合よく使われているのだというのは、自分が一番、痛いほどに分かっている。それでも、俺にはどうにもできないのだ。この人が、愛おしいのだ。 さんが一歩、また一歩と俺へと近づいてくる。 「綱吉くん」 「はい」 「ディーノがね、あれから愛人囲い始めちゃって」 「……ディーノさんが?」 ディーノさんとさんの二人は、いつも笑顔の絶えない仲の良い夫婦だった。幼馴染みでもある二人の間には、なんの問題もない。常に幸せに包まれていて、いつでも優しい二人きりの世界で生きているのだと誰もが信じて疑わない。絵に描いたような完璧な夫婦だった。その証拠にディーノさんはさんを誰より大事にしていた。さんもそれに応えていた。 けれどちょっとしたことで、かっちり噛み合っていたはずのその歯車が狂ってしまった。なんてことはない。ただ、ディーノさんのそばに有能な秘書がついた。それだけだ。 その女性は日本人で、更には秘書らしくよく気の回る人だった。いつでもディーノさんの後ろに控えて、いつでもディーノさんが望むことを頼まれる前にさらっとやってのけるような。それが彼女の仕事だし、ディーノさんだってそのつもりでそばに置いていただけのことだったろう。もちろん。 けれど、嫉妬深いさんにはそれは決して許せるものではなかった。ただ、それだけのことだ。人が聞いたら笑うようなことだけれど、さんのディーノさんへの執着ぶりを知ったら口をつぐむはずだ。 そんな素振りをちっとも見せずにいつも優しく笑っている人だったけれど、俺はずぅっと前からそのことに気づいていた。ディーノさんだって知らなかったことを、俺は知っていたのだ。二人がじゃれあう姿からは、誰も想像すらしなかったろう。ディーノさんの妻として、さんは完璧だった。優しくて甘い瞳も、柔らかな声音も、すべてが。誰の目から見ても、二人は幸せいっぱいの仲睦まじい夫婦だったのだから。 でも俺は知っていたのだ。俺の頬に冷たい指先を滑らせるこの人の、憎しみに染まった仄暗い瞳も、すべての感情を消し去ってしまったかのような恐ろしい声音も。 「なんであの人がそんなことするのか、私ちゃんと分かってるわ。あの日、綱吉くんと寝た私への当てつけよ」 「そうでしょうね」 「全部知ってるくせにこんなに回りくどいことをするのが、あの人らしいわよね。……それに、今回のことも分かってる。私の反応を見て、自分への愛情を確認したいだけってこと」 愛人を囲ったとして、ディーノさんは誰の相手もしないだろう。嫉妬深く、敵と判断した相手にはどこまでも冷酷になれるこの人を、優しく、温かく、繊細な人だと信じて疑いもしていないのだから。でも、俺は知っている。 こんなことのきっかけになったあの秘書は、俺が殺してしまった。 誰にも悟られることなく、静かに。 俺はさんの望みならばすべてを叶えてあげたい。そのことしか頭にない。この人のためならどんなことだって叶えたいし、それを成すだけの力を残念ながら――いや、幸運にも俺は持っているのだから。 でもね、とさんがゆったりとした口調で言う。 そして“なんにも”ないと言ったときの表情で続けた。 「私はそういうこと全部、許さない女なのよ」 普段のさんしか知らない人間――俺以外、きっとみんながそうだけれど――が今の彼女を見たら、一体どんな反応をするだろう。 なんてことだと嘆く? どうしてこんなに、と悲しむ? かわいそうにと憐れむ? きっとどれも正解だろう。 あぁ、でもディーノさんの反応は想像できない。 あの人は一体、どんな反応をするだろう。ずぅっと一緒に過ごしてきた幼馴染で、誰より愛するこの人の正体を知ったら。 彼女の愛情を確認したいというのなら、喜んだりするだろうか。 いや、嘆いて悲しんで、挙句の果てに彼女を憐れむかもしれない。けれどそのどれであったとしても、もう狂ってしまった歯車がもう一度噛み合うことはないだろう。彼女はもう引き返さないし、俺は後悔なんてしていない。この先もすることはない。 「ねえ、綱吉くん」 「はい」 彼女が今俺に望むことは、たった一つだろう。 俺はさんのしもべなのだ。この人の望むことすべてを叶えるしもべ。 「あの日の続き」 さんの言葉は、最後まで聞かなかった。 翌日、ディーノさんが俺を訪ねてきた。 なんの話だか分かっている俺は、冷静だった。 「ツナ……お前、どういうつもりだ」 俯いているその表情は窺えなかったけれど、言いたいことはたった一つだろう。でも俺は、“なんにも”分かっていないふりをする。 「どういうって、どういうことですか?」 「に何言った!」 「さんに? 俺は特に思い当たることないですけど。何かあったんですか?」 「……白々しいな」 白々しいのは俺より、と思ったがもちろんそんなことは口に出さなかった。ただ笑ってみせて、“なんにも”分かってないふりをするだけだ。それが、あの人の望みだ。 ディーノさんは顔を上げるとキッと俺を睨みつけて、鈍く銀色に光る銃口を真っ直ぐ俺に向けた。 「物騒ですよ、そんなもの」 「こうでもしなくちゃ、お前口割らないだろ。……オレだって好きでこんなモン持ち出してるわけじゃない」 「なら余計にですよ。同盟ファミリーでのいざこざなんて、お互い困るじゃないですか」 「……もう一度聞く。……に、何言った。アイツに、何した?」 何かしたのはあなたが最初でしょう。その言葉は喉のすぐそこまできていたけれど、俺はやっぱり口には出さなかった。 笑っちゃうよなぁ、と思う。ディーノさんにしろさんにしろ、お互い愛し合ってるくせに。でも二人がこうだから、俺はあの人の望みを叶えてあげられるし、ディーノさんより彼女を深く理解できるのだ。これ以上のことってないじゃないか。 俺はあの人からの愛情なんて望んでやしない。ただ、彼女の望みを叶えることができる。それだけで満足なのだ。だってそれは、彼女を知る俺にしかできないことなのだから。 ディーノさんは俺に銃口を向けたまま、苦しそうな表情で言った。 「ツナ……オレは、が大事だ。アイツのためならなんだってする。今までだってそうしてきた」 「夫婦仲が良いようで羨ましい限りです。俺もそろそろ、そういう人を見つけないと駄目ですね」 「茶化すな。……悪いとは思ったが、昨日を尾行させた。……ここへ来たのも、何をしていたのかも知ってる」 それでどうするって言うんですか? そう言った俺にディーノさんは目を見開くと、つかつかと俺に近寄って頬に拳を叩きつけてきた。まぁ予想していたことだ。いくら情に厚くて俺を可愛がってくれていたとしても、大事な大事なさんに手を出されたとすれば当然だ。ちっとも驚くことではない。俺は思わず笑ってしまった。 「ディーノさん、愛人を囲い始めたって聞きました。さんがいるのに」 「……それがどういうことだか、お前に分かるか? お前にオレの気持ちが分かるか?」 ずっと可愛がってきた弟分に裏切られて、さぞかし苦しくて悲しいことだろう。でも、この人は分かっちゃいないのだ。どうしてそんなことになってしまったのか。 俺は自分のしていることが正しいだなんて少しも思っていないけれど、さんの望みを叶えることが悪いことだとは思っていない。俺が望むのはあの人の幸せで、あの人の忠実なるしもべである俺にはそれがすべてだ。 「ディーノさんの気持ち? ……俺にはさっぱりですけど」 「……なぁ、なんでこんな真似……ツナ、なんでだよ……」 その問いかけに答えることは簡単だけれど、それをしたところでこの人には理解できないだろう。俺の気持ちも、さんの気持ちも。でも、それでいいのだ。 さんはこれから先もずっと良き妻でいるだろうし、俺も彼女のしもべであり続けることには変わりない。歪んだ、人の道を外れた関係であったとしても、俺もさんも変わらない。それにディーノさんだってそうだ。 さんをずっと良き妻であると信じて疑わないし、俺は卑怯な盗人だろう。 こうしてあの人のすべての望みが叶うのだ。また同じようなことを繰り返すとして、ディーノさんに憎まれるとして、俺にはなんの見返りもないとしても。 「いやだわ、二人とも何をしてるの?」 実に楽しそうな声だった。 これだからこの人の望みを叶えようという俺の気持ちは、果てを知らない。 さんの顔は、ディーノさんの“良き妻”だった。優しくて温かくて、あなたが好きよ、と今にも語りかけそうな甘い笑顔を浮かべている。 ディーノさんはハッと振り返ると、すぐさまさんのもとへ駆け寄った。 「! お前……お前、なんでここに来た?」 「あなたがここにいるからに決まってるじゃない。綱吉くん、お仕事中だったでしょ? ごめんなさい」 「いえ、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」 俺たちのやり取りはごく自然で、ディーノさんが戸惑っているのがよく分かった。それもそうだ。昨日寝たっていう二人が――さんが、こんなにも“普通”にしているのだから。 「……。お前、昨日――」 「そう、昨日ね、綱吉くんにはとってもよくしてもらったのよ」 「……どういう意味だ」 「怖い顔しないで。……あなた、最近ちっとも私の相手をしてくれないから、相談に乗ってもらってたのよ」 さんはその完璧な笑みを少しも崩さずに、用意していたらしいセリフをすらすらと読みあげた。 この人は分かっているのだ。心優しい、人を疑うことを知らないディーノさんは、自分が言えばどんなことであれ信じてしまうんだということを。たとえ、それがどんな嘘っぱちであろうとも。ディーノさんはあんなに信頼している部下の報告さえ、この人が違うと言うのならと信じない。恋は盲目と人は言うが、それは愛にも言えることである。 恐ろしい人だなと思っても、やっぱり俺の気持ちは揺らいだりしない。俺はこの人を愛している。だから、この人が望むというのなら、それを叶える以外は他にない。こんな仕打ちはないな、とどこかで思っているにしても。 「それは――いや、オレが悪かった。今日はちゃんとお前のところへ帰るし、お遊びは終わりだ」 「本当に? ……私、本当にさみしかったし、とても悲しかったのよ」 「……、悪かった。オレを許してくれ。オレが愛してるのはたった一人、お前だけなんだ」 さんは何も言わず、ただディーノさんの手からそっと銃を取りあげた。 「こんなもの持ち出して、一体二人で何をするつもりだったの?」 「ちょっとしたお遊びですよ。オレもディーノさんも案外好きなんですよ、“ごっこ遊び”」 「あら、じゃあお邪魔だったわね」 さんはディーノさんの腕に縋るように自分の腕を絡ませると、俺の目にじぃっと視線を寄こした。意味深だし、思わせぶりだ。実際のところ、“なんにも”ないのだけれど。 「ツナ、邪魔して悪かったな」 「そんな、とんでもない。いつでも遊びにきて下さい」 「あぁ、そうさせてもらうさ」 あんなにおっかない顔をしていたのに、ディーノさんは太陽みたいな笑顔を見せた。この人は本当、人を疑う――さんを疑うことをしない人だなぁ。この人の正体、本当に知らないんだなぁ。 ずぅっとずぅっと、そばにいたっていうのに。 機嫌良さそうに何かさんに語りかけているディーノさんと、可憐に笑うさんの後ろ姿を見送る。そうしていれば、ただただ仲の良い夫婦に見えるのに。どこで、捩れてしまったんだろう。 俺はもちろんその答えを知っているけれど、やっぱり“なんにも”知らないふりをする。 去り際、彼女はこちらへ振り返ると小さく笑った。 ――また今度。 俺は彼女のしもべだ。 さんのためなら、どんなことであれその望みを叶えてみせる。 それが俺の幸福のすべてだ。 |