俺には人に自慢して回りたいほどかわいいカノジョがいる。 顔はどっちかっていうとカワイイ系で、ちっちゃくて、いつも甘い匂いがする。香水とかじゃなくて、なんていうか……赤ちゃんがミルクの匂いするのと一緒っていうか。 どこもかしこもかわいすぎて、俺ってなんて幸せ者なんだろう。毎日カノジョと顔を合わせるたびに思う。朝早くて夜遅い俺を気遣ってくれて、私のことはいいからバレー頑張ってね、なんて健気だ。今まで付き合ってきた女の子の誰よりかわいくて、誰よりも俺のことを好きでいてくれる。俺ってほんとに幸せ者だ。 「とーるくん」 ちゃんだ。見よ、この非の打ちどころのないかわいさを! ちらちらと男どもが俺のことを見ては溜息をつく。ふふふ、うらやましいでしょ? カノジョがいるヤツなんてたくさんいるけれど、これだけかわいいカノジョがいるヤツなんて俺の他にいないもんね。できるならみーんなちゃんと付き合いたいって思ってるもんね。でもざんねーん。俺がちゃんのことを大好きなのと同じように、ちゃんも俺のことが大好きなのだ。誰も割って入れるわけがない。 鼻歌交じりにちゃんに駆け寄る。あぁ、やっぱりかわいい。甘い匂いがする。俺ってほんとにほんとに、幸せ者だ。 「ちゃん! 教室までくるのめずらしーね。どうしたの?」 「うん。あのね、明日って記念日でしょ?」 「そうだよ! 一ヶ月記念ね。忘れたりなんかしてないよ?」 そうだ。忘れるはずがない。付き合って最初のイベントだ。今まで色んな女の子たちと色んなイベントを経験してきたのは、このためだったのかもしれない。俺はそう思うくらいには気合いが入っている。ここでちゃんの心をがっしり掴んで、次の三ヶ月記念を目指してより一層仲良しでいたい。 女の子はイベントが大好きだというのはよーく知っているし、サプライズだって大好きだ。俺は今までたくさんのサプライズを仕掛けてきたけれど、そのどれも今回は使いたくなかった。ちゃんには使い回しなんて似合わないし、他の女の子たちと同列に扱うのも嫌だ。ちゃんは俺のトクベツなのだ。後にも先にも、こんなに俺を想ってくれる女の子なんていないだろう。 ちゃん、喜んでくれるかなあ? 口元がにやにやっとするのを我慢しながら、俺よりずぅっとずぅっと小さなちゃんをじっと見つめる。俺は苦などないけれど、ちゃんのほうは見上げるのって辛そうだな、と思って視線を合わせるように屈もうとした。瞬間、ちゃんがにこっと笑った。 「うん。だからその前に言っておきたくて」 「なぁに?」 「別れよ」 何を言われてるのか、さっぱり分からなかった。 「……うん?」 置いてけぼり、いや違う。突然、どこか違う世界に飛ばされてしまったようだ。俺が知ってる場所とよく似ているけれど、ここは違う世界なんだ。だって言葉の意味がまったく分からない。そもそも“それ”って言葉なの? 混乱する俺など知ったこっちゃないのか、「ごめんね。一ヶ月も付き合う気なかったんだけど、とーるくん部活で忙しいし、別れ話なんかするヒマなかったから……。でも記念日なんかお祝いしちゃったら、ずるずる続いちゃうし」とちゃんは続けた。うん、やっぱりここって違う世界みたい。 ……いやいやいや。現実逃避してる場合じゃない。俺のかわいいカノジョ――俺をいちばん好きでいてくれるはずのちゃんが、急にそんな……。そんな……。 「え、ちょっと待って、わ、別れるって、なんで?」 そうだ。まずはどうしてそんな……さっぱり分からないことになったのか、しっかり問い詰めなければ。記念日はいよいよ明日だというのに、ちゃんがローなんじゃなんにも楽しくない。 俺は今度こそ屈んだ――いや、もう崩れ落ちるように膝をついた――けれど、ちゃんはやっぱり知ったこっちゃないという態度で言った。 「なんでって……なんで?」 「なんでって、ちゃん俺のコト好きでしょ? なんで別れなくちゃいけないの?」 俺の目にいつもちゃんが映っているように、ちゃんもそうだと当たり前に思っていた。俺のことをいつも心配してくれて、俺のことをいつでも好きでいてくれる。そのはずだ。なのに、こんなのってあんまりじゃないか。なんで? こっちが聞きたい。 だって毎日毎日、俺たちはお互いの気持ちを確認してきた。好き? あいしてる? 俺はもちろん、「好きだよ」「あいしてる」と何度も囁いたし、何度もキスをした。ちゃんだってそうだ。同じように、「とーるくん、好き」「あいしてる」とキスをしてくれた。俺と同じだけの愛情を注いでくれていた。そうでなくちゃ、この一ヶ月はなんだったっていうのか。 こんなの、嘘だよね? 言葉なくちゃんに問いかけてみると、答えはこうだった。 「え、私そんなこと言った? だったらごめんね。それ、なかったことにしてくれる?」 長めのカーディガンの裾をきゅっと握った、ちっちゃいかわいい手。それを口元に持ってきて首を傾げるちゃんは百点満点だ。かわいい。萌え袖とかあざとくない? とか俺は思ってたけどこれはかわいい。いや、そうじゃない。 俺の告白からスタートしてここまで順調だったお付き合いだが、一ヶ月記念を明日に控えて大ピンチである。しかも、ちゃんにサプライズを仕掛けるどころか、こっちが先にこんな心臓に悪いサプライズを仕掛けられたということ、これは大問題だ。 「……どっか別の場所で話そう。ね?」 とりあえず、まずはちゃんの気持ちを落ち着かせよう。こんな恐ろしいこと、きっと何かの勢いで、突発的な感情任せの理性なき言葉だ。 まずは俺がクールにならなければ、と柔らかい調子で言ったと思う。実際には、頭の中はもうぐっちゃぐちゃに色々な考えが煮込まれて、何がなんだかわけが分からない。それでも、まずは俺がクールに。そうしたら自ずとちゃんだって――というのは面白いほど的外れだった。 「なんで? 私もう及川くんと話すことないけど」 「及川くんってなに!」 「え、だってもう付き合ってないし」 「俺は別れるって言ってないでしょ!」 「え」 「とにかく話そうってば」 そこへ非情にも予鈴が鳴ると、ちゃんは「次の授業遅れると困るから」と言ってさっさと自分の教室へ帰ってしまった。俺はそれを引き止めることができなかった。 授業はもちろん大事だけど、ここは引き止めるべきだった。いやそんなことより。なんでこんなことになってるんだかさっぱり分からない。まったく分からない。 だって今朝あいさつしたときのちゃんはいつも通りで、(あっちゃならないけど)そんな素振りちっともなかった。それが急に別れたいなんてどう考えたっておかしい。 その後の授業はなんにも頭に入らなかった。 ホームルームが終わると、俺はすぐさまちゃんのクラスへ向かった。こちらはまだ終わっていないようで心底安心した。ここで逃げられたら、もう次はない。 先生の「じゃ、かいさーん」というやる気のない声を合図に、わらわら人が出てくる。俺に声をかけてくる女の子もいたけれど、いつものように愛想よく振る舞うことはできなかった。それに機嫌を悪くしたらしい子が、意地の悪い顔をして「ねえ、及川くん昼休みにさんと別れたんでしょ?」と言って笑った。 「……別れてないけど」 俺は基本的には女の子はみんなかわいいと思っている。みんな何かしらかわいいところがあるからだ。 目の前の女の子のかわいいところはどこだろう。俺は一つ見つけようと思ったけれどダメだった。この子にも何かしらあってしかるべきなのに、そう思えなかった。 彼女は笑い顔で媚びるように言う。 「えー、さんに別れようって言われたんでしょ? 知ってるよ」 「だからなんなの? 別れてないってば。ていうかさ、キミには関係ないよね」 間髪入れずに俺は答えた。ちゃんと俺の関係、ちゃん個人のことで外野から口出しされるのは大嫌いだ。 俺にはちゃんがいればいい。ちゃんにも俺がいればいい。ふたりで一つだ。俺たちは想い合っている。ふたりの間にはなんにもいらない。 「ふーん? でもさんって彼氏とっかえひっかえしてるってウワサだよ。及川くんも遊ばれてただけじゃないの?」 彼氏をとっかえひっかえ。遊ばれてただけじゃないの。 手を上げてしまいそうになった。何にカッときたのか分からないほど、俺の感情は一瞬で昂ぶった。自分の立場とか外聞とか、そういうのは一切頭になくて、俺は本当に本気で、目の前の女の子を殴ってしまうところだった。 振り上げた手を止めたのは、ちゃんだった。 「とーるくん、待たせちゃってごめんね。はやくかえろ」 昼休みのことなんか初めからなかったと言わんばかりに、ちゃんはふつうだった。甘い匂いを漂わせながら、舌っ足らずに間延びした声で「とーるくん」と俺を呼ぶ。あまりにもふつうだった。 意地悪顔だった女の子は、今度は不機嫌顔で声の調子を鋭くした。 「は? さん、及川くんとは別れたんでしょ。一人で帰れば?」 ちゃんは気にも留めずに、マイペースに答える。 「別れてないよ。ちょっとケンカしただけ。とーるくん、かえろ」 それどころか、ちょっと眠たそうな様子すら見せた。相手の神経を逆なでするだろうに、これもやっぱり“知ったこっちゃない”らしい。 こんなとこにいつまでもいたって、なんにも解決しない。俺の知りたいこと、俺に突きつけられた問題は。ああ、ほんと、なんでこんなことに……。 俺は黙って、ちゃんの手を握った。 「危ないなぁ。及川くん主将でしょ? 問題起こしたらバレー部みんなが困るよ」 見知らぬ公園の前で、ちゃんはゆったりとした口調でそう言った。 学校から無言で歩き続けた。どこまで来てしまったんだろう。いつの間にか俺の手を引いて歩くちゃんの背中を、俺はただただ見つめ続けていた。 そうすることで、すべてのことから逃げ出せるんじゃないかと思ったのだ。ちゃんに言われたことから、あの女の子に言われたことから。それで何が変わったか? 何も変わらない。ちゃんは俺を突き放している。 「……ねえ、それやめてよ」 「なに?」 「及川くんて呼ぶの、やめてよ」 弱々しく吐き出した言葉は、俺の耳にはうまく聞こえなかった。俺にはもう、縋ることしかできない。お願いだから突き放さないでと。 なんの繋がりもない他人みたいに呼ばないでほしい。もう俺はちゃんのトクベツじゃないなんて言わないでほしい。 そうして縋る俺の手を取ってくれると信じていた。けれどちゃんは眉間に深い皺を寄せて、「なんで?」と更に俺を突き放した。 「……理由なんか一つしかないよ。俺、ちゃんと別れるつもりない」 ちゃんは一瞬だけ驚いたような顔をしたけれど、すぐに無表情になった。それがますます、アンタはもうこっからこっちには入ってこないでね、と線引きされたように感じさせる。 ならば俺は、その非情なラインをぶった切るためにひたすら縋るしかない。こっからこっちね、と線を引くその足にしがみつく以外何ができるだろう。情けなくても、俺にはこんなことしか思いつかなかった。 もう手を取ってくれないなんてもんじゃない。そのうち、縋りつくこの腕を、ちゃんは蹴り飛ばすんじゃないだろうか。 ちゃんは大袈裟なまでに深く重い溜息をついて、冷めた目を見せた。今まで見たことのない目だ。ちゃんの瞳は、いつも優しい色をしている。でも、それがどんな色だったか思い出せない。毎日毎日、隣に立っていたのに。それほど、ぞくりとした。 「そんなこと言われても困るよ。私は別れたいの」 「……だからなんで? なんで急にそんなこと言い出すのか分かんないよ……」 「別に急じゃないよ。私は二週間くらい付き合えればよかったし。“次”が見つかるまでの“繋ぎ”」 “次”が見つかるまでというのは、よく分からなかった。ちゃんがどういう条件の男を求めているのか分からないなら、それは俺が知らなくてもいいことだと思った。 ただ、“繋ぎ”かあ、と考える。俺は“前”の後の“次”にすらなれないということだ。これはなかなか強烈な一発だなあ。どこか他人事のようだったけれど、多少のショックはあっても諦める理由にはならない。それに、ちゃんと俺とじゃ気持ちが違うのだ。俺はずっとふたりおんなじ気持ちでいると思っていたけれど、そうじゃなかった。 でも、それって何か問題ある? 「……ちゃんがそうだったとしても俺は違う」 ちゃんは“次”にするほどの魅力が俺にないと思っているにしても、俺はその気持ちとは違うのだ。心の中をぐるぐる回る感情のどれもが、ちゃんのことを肯定している。 だって、好きだ。ちゃんのことが、大好きだ。だから、何を言われたってどんな冷たい目をされたって構わない。俺の悲しみも怒りも、憎しみでさえちゃんのことが好きでたまらないのだ。どれだけ蹴られ続けたって、俺はちゃんのことを好きでいることしかできないのだ。 「じゃあなんだったら別れてくれるの?」 「なんでも別れない」 ふぅん。ちゃんは考えるような素振りを見せた後、「じゃあ言うけど」と仁王立ちした。見下ろしているのは俺のほうなのに、ちっちゃくてかわいいかわいいと思っていたちゃんのほうに見下ろされている錯覚に陥った。 でも俺は何を聞いたって全然平気だ。俺が何より辛いのは、ちゃんと別れることだけなのだから。 俺のそういう気持ちを察したのか、ちゃんはずっと強く寄せていた眉間の皺を、より一層深めた。 「私、及川くんのこと初めから好きじゃない。好きって言われたから付き合っただけ」 「うん。でも俺はちゃんのことずっと好きだよ」 「ウワサも大体ホントのことだよ。こんなに続いちゃって、しかもこんな風に駄々こねられるって分かってたらもっと早くに別れ話した」 うっ、これはちょっと刺さる。 でも俺は引かない。 「ウワサなんかどうだっていいよ。別れ話なんていつされたって嫌だって言うし」 ちゃんは追い込みをかけるように、容赦なく言葉のマシンガンを撃ち放つ。 でもここで折れたらいけないのだ。俺を好きだと、あいしてると言ってくれた唇で、どんなに乱射されたって。 「他に彼氏いる」 「そうなの? どんな人?」 「バレーやってる人。及川くんよりかっこいい」 「へー、そうなんだ。今度会わせて。俺よりかっこいいんでしょ?」 「その人の他にも彼氏いるよ」 「何人? どんな人たち? その人たち、俺よりちゃんのこと好きなの?」 「……そんなこと知るわけないでしょ。もういいじゃん。とにかく及川くんとはもう付き合えない」 ちょっとちゃんの勢いが衰えたと感じたので、今度は俺が囲み込んで逃げ道を塞いでいかなければと反撃の態勢を取った。 「なんで?」 「はあ? 彼氏何人もいるって言ってるでしょ。何言ってんの?」 「ちゃんこそ何言ってんの? 俺、別れないってずっと言ってるじゃん」 「……ふつうさぁ、彼氏何人もいるって言ったらそこで別れるよ。浮気でしょ、これって」 「じゃあ俺ふつうじゃないんだろうね。だから別れないよ」 ここまできたら……と思ったのはほんの束の間で、ちゃんは神妙な顔でこう言った。 「……分かった」 それは俺の言うことを受け入れますという意味でないのは、すぐに分かった。また攻守逆転である。 ちゃんはうざったそうに肩に掛かった髪を振り払い、うざったそうにもう用意してありましたというほどスラスラ言った。 「じゃあ二股かけてたのバレてフラれたってことにする。ウワサもあるし、みんな信じるよ。……そっちが別れないって言っても、私もう付き合う気ないから」 なるほど、そうきますか。 もちろん俺はそんなことじゃ諦めない。 ちゃんは“繋ぎ”にはなんの興味もなかったんだろう。俺のこと、知らないんだ。俺がどんなに執念深くて、一度手にした大事なものは何があっても手放さないということも。 「じゃあ二股かけてんの分かって許したのに、ちゃんが申し訳ないって俺のこと避けてるってことにするからいいよ。俺は何言われても別れない。絶対、絶対別れない」 ちゃんが何がなんでも俺と別れたいのなら、俺だって何がなんでもちゃんと別れたくないのだ。たとえあの意地悪な女の子が言っていたことが本当で、俺はただの“繋ぎ”だとしても。痛い、離してって言われたって噛みついててあげる。 でも、何を言われたって平気だなんていうのは、ウソだ。強がりだ。 「きらい」 「え……」 ちゃんのことが大好きだからこそ、そうでなくては決して刺さらない言葉だ。それを分かっていて口にしているのはよく分かっている。別れたいってことならば、言われる覚悟だってしていた。常套句だ。 それでも、これは刺さるどころか真っ二つに――いや、バラバラになってしまうまで引き裂かれるようだった。 「及川くんのこと大っ嫌い。そもそも初めから好きじゃないのに、こんな子供みたいなことされたらもう嫌いにしかなれない。他の誰も、こんなに私のこと困らせたりしなかったよ。ほんっとうざったい」 それでも、俺の感情のすべてが叫んでいる。もう掠れに掠れて、スカスカの声で。 「それでも、俺はちゃんのこと、好きだよ」 ちゃんが息を呑んだのが分かった。ここへきてやっと、俺のことを見てくれた。 「……なんで泣くの」 目頭はカッと熱をもっていて、その熱は顔中どんどん広がっていく。 「泣い、てない」 「泣いてるじゃん」 そんなわけないと食い下がることはできなかった。もう声を上げてしまいたかったから。 ちゃんの眉間の皺が、ほんの少しだけ薄くなったような気がした。それから口を開いて一拍置いてから「はい、これで私がヒドイ女って分かったよね。終わり。じゃあね」と色のない声音で言った。怒ってるようでも、呆れているようでもないし、でももしかしたらその両方なのかもしれない。何も察知することのできない声だった。 熱は喉までも浸食していたけれど、力いっぱい叫んだ。 「終わりになんかさせない! 俺は絶対別れない!」 「……バレー、頑張ってね」 もう冷たい目ではなかった。俺にはどんな感情ですらもったいないということなんだろうか。 「……やだ……やだってばあ」 初めから縋りつくことしかできないと分かっていたし、何がなんでも食らいついて離さないと思っていたのに、子供みたいにえんえん泣くことしかできない。本当に、これじゃあ駄々をこねているようだ。ちゃんにとっては実際そうなんだろう。 ちゃんは何も言わずに、振り向くことすらせず帰っていってしまった。 明日から、どうしよう。どうやったらちゃんと別れないで済むんだろう。 俺が何を許しても、それはちゃんにはなんの意味もない。だって許されたいと思ってないし、俺は口出しできる立場にすらいないのだから。 明日も朝早いのに、俺はちっとも動けずにいた。涙も止まってくれない。ちゃんが俺と別れないでくれるなら、なんだってするのに。彼女はそれを許してくれない。許されたいのは、俺一人だ。 どのくらい時間が経ったのか分からない。ただ、もう真っ暗だ。外灯に虫が群がっている。 俺もあんな感じなんだろうか。なんの役にも立たないのにうるさく付きまとって、明かりを妨げている。でも、そうだとしても俺は人間で、感情があるのだ。割り切れないことだってある。嫌われていても、もっともっと嫌われてしまうとしても。 「……何やってんの、バカ。スポーツ選手が体冷やすとか信じらんない」 甘い匂いと一緒に現れたちゃんの髪は、ちょっと濡れている。 「なんで……」 面倒そうな顔をして俺が腰掛けているベンチの前でまた仁王立ちすると、「なんでもクソもないんだけど」と苛立ちを隠さなかった。 ちゃんがクソなんて乱暴な言葉を使ったことは、今まで一度だってない。そもそも今日一日――いや、数時間のうちに見たちゃんはどれもいつもとは違った。真逆だった。天と地とがひっくり返ったように。 かわいいピンク色したパイル生地のワンピース(部屋着だろう)の裾が、ぼんやりとした明かりの中では目に白っぽく映る。ピンク色と白が混じり合って、ちゃんの匂いに色をつけるのならこれだろうなと考えた。 ぼうっとしている俺に気がついたのか、ちゃんがボリュームを上げた。 「岩泉くんから連絡あったの。私と揉めてるって聞いたから、及川どうしてるかって。……手間かけさせないでよね。さっさと帰るよ。明日も朝練でしょ」 ちゃんがばっと俺に背を向けると、ワンピースの裾が揺れた。白いすらっとした足が寒そうに無防備をひけらかしている。 はっとした。今何時だろう。ちゃん、お風呂上りだから髪濡れてるんじゃないの? そもそも部屋着だし。なんてことだ! ベンチからすぐさま立ち上がると、華奢な両肩を掴んでこちらへ反転させた。 「ちゃん一人でここまで来たの?!」 「だったら何」 「そっちこそ何やってんの! 女の子なのに!」 アンタほんとにうざったいね。 そんな顔するなら口に出してくれていいのに。そう思うほど、ちゃんの表情にははっきり感情が見て取れた。 それにしたってなんてことだ……。岩ちゃんはもちろんこんなつもりで連絡したわけじゃない(岩ちゃんはそういう性格だし、そもそも当たり前のことだ)。なのにこんな真っ暗な時間に女の子がたった一人で、こんな人気のない公園へ来るなんて狂気の沙汰である。もしちゃんの身に何かあったら、俺も正気じゃいられない。なのに当の本人はなんてことない顔をしている。もっと危機感持って生活しなきゃダメだよ! とお説教するしかない。 まず何から注意しようと考えていると、ちゃんは上目づかいに俺を見た。視線が絡む。舌と舌とが熱く溶け合うキスを、何故だか思い出した。 「……帰りは及川くんに送ってもらうから、別にいいでしょ」 「あ、当たり前じゃん何言ってんの!! ……え」 反射的に飛び出した自分の言葉に気を取られて、ちゃんが何を言ったのか理解するまでに時間を要した。内容を正しく理解して戸惑う俺の目を、ちゃんがじぃっと見つめてくる。俺がよく知っている色だ。あぁそうだ。ちゃんのいつもの優しい色は、これだ。 「送ってくれないの?」 「……お、送っていいの? ……嫌じゃないの?」 俺の目から視線を離さず、ちゃんは首を傾げる。 ……なんだよ、何それ。あざとい。 「なんで?」 ちゃんの肩からやっと手を離して、そのまま自分の顔を覆った。情けない顔を見られたくなかった。もう泣き顔を披露しちゃっているのだけれど。 深呼吸を一度して、口を開く。 「だ、だって、俺のこときらいって」 「まぁ」 ちゃんはちっとも間を置かずに言った。じわぁっとブレザーが水分を吸い取る。 「ほらぁ」 「泣かないでようざったいな。ホントに別れるよ」 「え」 今度は俺のほうが間を空けなかった。ばっと腕を振り下ろす。 「何よ、別れる気になったの?」 腕を組んで俺を見上げるちゃんは、やっぱり俺を見下ろしているかのような存在感だ。でも、ちっちゃくてかわいい、甘い匂いのする――俺のカノジョだ。俺が好きで好きでたまらない女の子だ。きっと、それと同じ分だけ俺を好きでいてくれる女の子だ。 「ううん、ううん! 何があっても、俺ぜったいちゃんと別れたりなんかしないよ! 三ヶ月も半年も一年も、ずっとずっとお祝いしようね!」 「一ヶ月記念すらうざいのにそんなやらなくちゃいけないの? とーるくん女子なの?」 「えっ? しないの?!」 とーるくん。舌っ足らずに、俺を呼ぶ。とーるくん。 俺はまた泣き出しそうで、誤魔化すように大袈裟に驚いて見せた。 だってちゃんが俺のちゃんでいてくれること――俺のカノジョであってくれることほど嬉しいことって、今の俺にはない。 「……えへへ」 「……何笑ってんの。……それまで付き合ってたらいいよ。記念日のお祝いしても」 ちゃんの手が、俺の手を黙って引く。 「……もうスペアないんだから、しっかりしてよね」 その後は、カノジョは何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。 ただふたりで――ちゃんは俺の手を引いて、俺はちゃんに手を引かれて、夜道を歩き続けた。 明日も、三ヶ月しても半年しても一年経っても、こうしてふたりで歩いていく。 |