もう終わったことだ。

悲しいわけではないし、後悔もしていない。ただ、時々思い出すことがあるだけだ。

料理をしているときにお気に入りの海外アーティストの曲を鼻歌交じりに歌うことや、自転車で二人乗りをするとき、スカートの裾に変な折り目がつかないようにいつもそわそわしていたことを。笑った顔や泣いた顔なんて、世の中で歌われているラブソングのようには思い出さない。心に沁みつくような思い出は、日常に密着したものだけだ。その中で、ふたり初めてのクリスマスには俺がケーキを買い忘れて怒らせてしまったことや、最後のバレンタインに彼女がくれたネックレスのことが引っ張り出されてくる。もう二度と会えないだとか、会話を交わすことさえ叶わないような関係ではないけれど、かつてのように親しく笑い合うことがないのは当然だ。彼女と過ごした日々は決して長いものではなかったけれど、俺の過去を振り返ればすぐに気づいてしまう。彼女が俺に与えた温かい思い出は、死ぬ間際に思い出されるようなものだということが。

なんとなく過ごす繰り返しの中で、色を足し、動きをくれたのは全て彼女だった。俺の中にある大事なものは、彼女が俺にくれたものばかりなのだ。彼女との関係が終わったその時には、気づけなかった。自分には非はない、きっと初めから合わなかった、別れて正解だ。いろいろな言い訳を作っては、どことなく寂しくなった部分を隠していた。時には彼女の粗探しまでしてざわつく心を無視して、心は未だ子供と変わらなかった。あの時、彼女に電話の一本でもかけていれば、虚しさを知ることはなかったのではないか。けれど、全てはもう終わったことだ。彼女との思い出がふと蘇ることがあっても、彼女の小さな癖すら鮮明に覚えていても最早どうにもならない。

「幸村くん」

「ああ、尾畑さん、どうかしたかい?」

オバタさんは、同じテニスサークルに所属する英文科の女の子だ。艶のあるダークブラウンの髪はゆるくパーマがかかっていて、ナチュラルなメイクでもよく映えるかわいい子。先週の金曜にあったサークルの飲み会で少し話をしてから、頻繁に声をかけてくるようになった。俺も鈍感ではないし、むしろそういう面に関しては人一倍に敏感であることをよく分かっているので、彼女の気持ちには察しがついている。うちのサークルは人数が多いし、日によって参加する人もバラバラだ。まったく接点のない生徒と顔見知りになることはほとんどないだろう。そんな中、滅多に顔を出さない飲み会で出会ったのには何か意味があるのかもしれない。そんな空想じみたことを考えるようになってきたのにも、意味があるのかもしれないが。

「どうかしたのって、今度一緒に遊びに行こうって言ってたじゃない!」
「うん、言ったね」

実際のところ、今思い出した。

「よかった!覚えててくれて。それでね、土曜から公開の映画なんだけど、一緒にどうかな?」

俺はどこまで彼女の言葉を聞いていただろう。思考はすでに違うところにあったのだけど。ミルクティ色の髪、歩き方、赤いバッグ。遠目に見ても、すぐに分かる。彼女だ。高校卒業まで傷みを知らない艶やかな黒髪だったのに、大学入学前に染めてしまったのを俺は快く思わなかった。染めないほうがよかったのにと何度も彼女に言ったけれど、気に入ってるからいいんだと譲らなかった。けれど、時間が経つにつれて目も慣れたのか特に気にならなくなってきた。黒に戻そうかなと彼女が言ったとき、そのままでいいと返したのは間違いだったろうか。そっか、と短く言って俯いたのはどういうわけだったのだろう。俺は決していい加減に答えたのではなく、彼女の変化を愛そうと思っていたからなのだけど。

「―――――幸村くん?聞いてる?」
「え?あ、ああ、ごめん、映画が…なんだっけ」
「だから、土曜日に映画行かないって話だよ。…もしかして、都合悪いかな?」

都合が悪いというより、君に悪い。そう言えるはずもない。それに、どんどんこちらに近づいてくる彼女のことが――――のことが気になって仕方ない。今のこの状況を見て、はどう思うだろう。ふたりで過ごした日々をあっさり忘れた薄情な男に見えるだろうか、それとももうなんとも思わないだろうか。どちらであっても、どちらでもないにしても、俺の彼女への想いが傷つくのは分かっていた。

「ねえ、幸村くん」

オバタさんがしびれを切らしたように俺を呼んだその時だった。が、こちらを見た。その表情から彼女の心境を汲み取るのは、超能力者や第六感の冴えた人間でなければ不可能だ。無というのは大袈裟で、人が電車に乗っているとき、歩いているときなどによく目にするような普通の顔だった。それからはっと気づいた様子を見せて、こちらに駆け寄ってくる。どくどくと脈打つ心臓の音が周りに聞こえるのではないかと心配するほど、俺は緊張していた。そしてとうとう、着ている服の柄まではっきり分かるほどの距離まで、彼女はやってきた。


「ゆきむら」


付き合っていた頃と同じトーンだった。ただそこに、親しさがないだけで。

さん、おはよう」
「おはよ、話し中にごめんね、尾畑さん。ちょっと急用で」

ふたりが顔見知りのようでほんの少し驚くと、英文科ということはと面識があるのも当然だとやっと気づいた。オバタさんが俺に対して向けている感情のベクトルの種類に気づいているのに、俺自身は彼女に対して何の興味も持っていなかったのだ。きっと、期待をさせるだけさせておいて。それでも、悪いとは思えど他に感情を持てることはない。悲しくはない?後悔はしていない?そんなのは嘘だ。自分の不甲斐なさで失った誰より大切な人に、どうして無関心でいられるだろう。俺はただ、逃げていたのだ。自分の過ちからも、を失ったことからも――――まだ、こんなにも好きなことからも。

「さっき蓮ちゃんに会ったんだけどさ、赤也が会いたいってうるさいから土曜に集まんないかって」

え、と小さく呟いたのはオバタさんだった。はそれに気づかない様子で、言葉を続けた。

「メール回すって言ってたけど、急だから文学部には会ったら伝えといてって言われてさ。学部で校舎違うと、こういうときに面倒だよね。出欠は蓮ちゃんにメールしてね。じゃ、話のジャマしちゃってごめんね」

そう言ってまた駆け足で去って行くに、俺は何も言えなかった。たったの一言も。それが悔しくて悲しくて、名残惜しく後姿を目で追っていると、彼女が走っていった先にいたのは蓮二だった。ちょうど、文学部の校舎から出てくるところでに気づいたようで、彼女を待つように入口の端へ移動し、彼女を迎えた。見間違いと思い込むのは簡単だけれど、あんなに背が高い奴は稀だし、そもそも中高と6年も一緒に過ごしてきた仲間に対しては無理だ。友達という距離感ではない親密さが、そこにはあった。と俺がきちんと知り合ったのは高2になる直前の春休みで、付き合い始めたのは夏。当時のテニス部と関わるようになったのはそれからといえど、は成績優秀で人前に立つことが多かったし、成績優秀ということは当然、頭のいい蓮二と話が合うのも頷ける。けれど、今までにあのふたりがあんなに体を近づけて話すようなところを、俺は知らなかった。それはただ彼女との恋愛に盲目だったからなのか、彼女のことをあまりに知らなかったからなのか。薬学部の俺は蓮二と同じ授業は一つもないけれど、昼食を一緒にとったり、お互い授業のないコマや休日には遊びに行ったりもする。それでも、一度だって蓮二からの話を聞いたことはない。俺から話すことも、またなかったけれど。それがどうして、今。

「幸村くん、行くの?」
「え、ああ、そうだね、行くと思うよ」
「…そっか」
「そうだ、それで、なんだったかな?」
「え?」
「さっき話してたこと」

オバタさんは、困り顔で笑った。

「……幸村くん、まださんのこと好きなんだね」

「、え?」

現実を突きつけられたことと、彼女との会話の内容を思い出して、俺はさあっと血の気が引いたような感覚に襲われた。

「ごめん!映画の話だったよね、ごめんね、今日はなんだかぼうっとしてるみたいだ」
「いいよ、隠さなくて。ずっと前から、知ってたもの」

俺が何か言い出すまえに、全てぶちまけるように彼女は言った。

「幸村くんは知らないと思うけど有名だったんだよ。幸村くんのテニスと同じくらい、さんと付き合ってるってこと。わたしはそれまでテニスとは全然無縁だったけど、全国大会にうちの高校も出場して、そのとき初めてちゃんとテニスを見た。そこでね、ひとめぼれしたの。でも、幸村くんにはさんっていう彼女がいて、そのさんもすごく頭がいいって有名で、しかもすごい美人だってことは知ってた。だけどちょっとでも幸村くんと近づけたらいいなって思って、幸村くんがこの大学に推薦で入るって雑誌でみて受験したの。それで、きっと幸村くんも入ると思ってテニスサークルに入った。…実際、幸村くんはサークルにも飲み会にも、あんまり来なかったけど。だからあのとき、飲み会のときわたしチャンスだって思った。さんとこの夏に別れたのは知ってたし、知り合うことさえできたらつけ込む隙はあるって思ったの。幸村くんが、さんのこと忘れてなくても、まだ、好きだとしても。でも、分かった。幸村くんがぼーっとしてるときって、だいたいさんが近くにいるときだし、今もさんが来てから目の色が変わった。わたしじゃ勝ち目ないんだなって、思い知らされた」

こんな形で彼女を傷つけてしまったこと、こんな形で自分の気持ちを知ったこと。どちらも情けなさすぎて、呆れてしまう。どうして、もっと早くに気づかなかったんだろう。自分のやせ我慢に、彼女のひたむきさに。ここで彼女のことを好きになれたなら、まだ救いはあると思うのに。

「……、ごめんね」
「初めから分かってたから」
「でも、」
「わたしに悪いって少しでも思ってくれるなら、さんのこと諦めないで」

ほんとうに好きになった人のことは、簡単には忘れられないよ。
切なげに笑った彼女の言葉に、君の笑顔を思い出した。
(思い出のままでいて)