日常の中でうっかり犯す間違いさえ、オレにはとんでもないものに感じられた。 自分のしていることは必ず正義に繋がると無意識に思い込んでいたオレは、たった今この眼前に力なく座り込む女を傷つけたことでやっと気づいた。オレは決して、いつでも正しいことをしてきたわけではないと。比喩ではなく、オレは人の生き死にさえ左右できる立場の人間だ。オレのちょっとした言動で、誰かを傷つけることなど簡単なのだ。 どんな人間であっても人を傷つけることはあるというのに、オレはそうではないとどこかで威張り散らしていた。顔も知らない赤の他人の命を預かることもあるオレには、道で転んでも大泣きするようなガキの頃から一緒に過ごしてきた、このかよわい少女を傷つけることなど造作もないこと。ほんの少し力を込めただけで、何もかも壊してしまうのは分かっていたはずなのに。 「、ごめん、ごめんな、痛かったよな」 細い両肩に優しく手のひらをやって、真っ黒な闇を思わせる長い髪で影を作っている顔を覗き込んだ。は何も言わない。 「、ごめん、力の加減が、」 「力の加減?…わたしを殴ったことは、力の加減さえなんとかすれば、あとは何も問題ないの?」 「ちがう、ちがう、ちがうそうじゃない」 「じゃあ、なんだっていうの…」 苦しげな吐息と一緒に吐き出された言葉は、ずしりとオレに覆いかぶさってきた。今の仕事―――マフィアの幹部になることを選んだのは仲間の、そしてオレの後ろを駆け足でついてくるかわいい女の子を守ってやるためだったのに。 とオレは、世間でいう幼馴染というやつだった。オレのうちは町内では通なお客さんがやってくる、ちょっと名の知れた寿司屋。のうちは、父親が医者で母親が弁護士。普通のうちの子供と、いわゆるエリート層の子供。もちろん敵対なんてしちゃいなかったが、近いのに遠い関係はまるでロミオとジュリエットだった。でも子供はそんなことは気にしないし親たちも仲良くやっていたので、それで何か困ったことはない。は両親が仕事で帰りが遅くなる夜には泊りにきたし、オレものうちに呼ばれて飯を食ったりもした。小学校も高学年になる頃にはお互いの友達とばかり遊んでいたが、それでも週末にの母親に映画に連れて行ってもらったし、うちの親父はに寿司をふるまっては家に泊めた。 だが中学となっちゃそうもいかない。思春期という字面はいいが、ある意味で病気のような青春時代の1ページの到来だ。オレは野球部に入ってボールの相手をすることに夢中になっていたし、もともと習い事をしていたも同じようにそちらに集中するようになった。それに、たまに少しでも話をしていればヤジが飛んだ。いつのときも人はうわさ話が大好物だが、思春期のものは一味違う。オレは気恥ずかしさと反抗心の狭間で悩んで、結局はを突き放すような結果になった。ただ、やはり噂で何組の誰々がに告ったなんて聞いた日には、すぐ近くにいるのに何もできない自分に苛立ち、またに対しても腹立たしさを感じた。どうしてクラスも違うし何も接点がない(実際には接点はあったかもしれないが)男に好かれるんだ、がそんなふうに思われるような態度をとってるから悪いんだ。大人が聞けば笑ってしまう理屈だが、その年代のガキなんてみんなそんなものだ。今思えばつまらないことだったが、それでなんとなく気まずくなっているオレたちのことなど知らない互いの両親は、ことあるごとにオレとを引き合わせた。そのときもオレは理不尽な怒りをに向け、のことをぞんざいに扱った。はそれに対して特に何も言わなかったが、時々何か言いたげな顔でオレを見ていることには気づいていた。もちろん、当時は知らぬふりを突き通したが。そしてオレの青春時代を語るに欠かせないものが、もう一つ。正確には二つだ。 自殺しようとしたところを、当時はただのクラスメイトだったツナに助けられたことだ。オレは腕の骨を折って野球ができないと落ち込んで、屋上から飛び降りようとしたのだ。これも大人にしてみればバカな話でオレ自身も苦笑してしまうが、当時のオレは本気だった。それこそ直前になって、に好きだと長年の想いをぶちまけるくらいには。飛び降りようとしたオレを止めるためにやってきたクラスメイト達の中に、ひっそり佇むがいたのははっきり覚えている。あちこちからやめろという声が聞こえたが、は何も言わなかった。ただ、目に涙を浮かべるだけで。結果オレはツナと一緒にダイブするも助かって、今でも親友だ。その後は思いもよらぬ展開続きだった。青春時代の思い出を二つと言ったのは、そのためだ。 ツナと親しくなってからオレはマフィアというものに深く関わっていくことになり、今じゃそれはオレ自身を指す言葉だ。その辺にいるバカな野球少年だったオレは、全てが親友のツナを中心とした大規模な遊びだと思っていた。けど、そんな言い訳もつかない事態が次々と巻き起こる。 に好きだと告げた自殺騒動の直後もそれ以降も、は変わらなかった。オレに告白の返事をするわけでもなく(とは言っても、あの告白は遺言のようなものだったので、返事も何もなかったのだが)、かといって告白してくるヤツを受け入れるわけでもない。両親が月に数回オレたちが顔を合わせる機会を用意しても、は何も言わなかった。ただ人付き合い用のテンプレートみたいな笑顔を見せ、親を通して振られる会話に当たり障りなく答えるだけで。オレも返事をもらえる告白をしたわけではないと分かりはじめて、でもそのままの関係でいるのは嫌だった。告白の返事なんていいから、前のように気軽に声をかけあって、親の誘いじゃなく友達として遊びに行ったりしたかったのだ。でもどうしたら以前のような関係に戻れるのか、オレには見当もつかなかった。 そんな時だ。今でこそ一応身内になるが、当時は敵としてオレたちの前にヴァリアーが現れたのは。生きるか死ぬかという戦いの中で、オレは自分が一番守りたいものに気づいた。仲間の傷つく姿を目にして、それぞれの守りたいものを知って。オレはを、守りたいと思った。傷つけたくない、守ってやりたい、大事にしてやりたい。オレはスクアーロとの戦いを前にもう一度、に告白することを決めた。は面食らったような表情をしたあと、やわらかく微笑んだ。あのときの告白は、ぜんぶ自分に都合のいい夢だと思っていた。擦れ違い続きだった関係の修復など、今更どうすればいいか分からなかった。けど、はぜんぶ正面切ってオレに話してくれた。そして、言ったのだ。 「たけしくんとは、きっと前世も一緒にいたんだよ」 初めからオレたちは、世間でいう幼馴染じゃなかった。 前世でも一緒に過ごしていた、きっと恋人だ。 だからあんなにも愛しくて、それゆえに苛立つこともあった。 こんなにも、焦がれているから。 「…、ごめん、オレ、疲れてるみたいで…いや、そんなの言い訳にすらならねぇよな、ごめんな、頬、冷やそう」 それが、どうしてこうなってしまったんだろう。 昼夜問わずに、祝祭日だって関係ない。そこに平和を脅かすものがあればボンゴレとしてオレたちは―――オレは、戦ってきた。大切なもののために。でも、オレ自身はどうだ?オレの大事なものは、ちゃんと守れていたか?最近の笑顔を見たのはいつだ? 「…ねえ、わたしたち、もう無理なんじゃないかな」 「え、」 「たけしくんが一生懸命なのは、分かってる。困ってる人や傷ついてる人を救ってるのも分かってる。だから、気を散らすようなものは傍においたらだめよ」 はそっとオレの手を払って、淡く微笑んだ。優しい思い出の中にある、あのやわらかい笑顔と比べることもできない。これは、別れの挨拶だ。 「…お前、昔オレに言っただろ」 はっとした顔を見せたのは一瞬だった。 「……さあ、もう覚えてないな」 それがお前の答えだというなら、まだオレは引き返せるのだろうか。 |
(もう、きみは何も言わない)