歳の離れた姉は、俺をよく可愛がってくれた。

教えてくれと言えば何でも教えてくれたし、欲しいと言えば何でもくれた。そうは言っても、物欲を大して持ち合わせていない俺は、特に何を欲しがったでもないが。ほんの小さな頃から、俺はあまり子供らしい子供でなかったらしい。今でも、歳からすると信じられないくらい落ち着いていて、しっかりしている、とはよく言われる。俺個人としてはその評価に別段感想はないが、客観的に見てみた時、捉えようによれば正直言われて嬉しくはないだろうと思う。多分、こういったところも「歳からすると…」という話になるだろうが。まぁそれはいいとして、そういう子供であった俺は、歳相応の我儘も一切言わなかったんだそうだ、という話にする。自分で言うのも何だが、俺は随分と可愛げのない子供だったと思う。幼い頃は、無茶な我儘も小生意気に可愛いものだからだ。歳の近い子供がおもちゃが欲しいと地団駄を踏んでいた時、俺はと言えば習字をしていた。本当に可愛げがない。家の両親は、そんな俺を気にしてはいなかったし、祖父母はむしろ可愛がってくれた。蓮二は良く出来た子で鼻が高い、そう言っては囲碁やら将棋やらを教えてくれ、俺は更に子供らしからぬ落ち着きを身に付けていった。まぁ、テニスを覚えてからは、多少子供らしい言動というのも知っていったが。つまり俺は、ヒーローアニメやら虫捕りより、囲碁や将棋、更には書を嗜む、非常に扱いにくい子供だったわけだ。おもちゃの一つでも欲しがってみせればよかったものを。子供の我儘など大した問題ではないのだから。

そんな俺が唯一、我儘のようなことを言う相手が、姉だったのだ。

俺より六つ上の姉はいつの時も頼りになったし、俺は尊敬していた。囲碁を覚えた時、俺はすぐさま姉に相手をして欲しいとねだったし、それで当たり前のように姉に負け、どこがどうなって負けたのか理由が分からないと言っては姉に始めから一手ずつ再現しながら解説をしてもらった。分かりました、と納得する俺の頭を撫でて、蓮二はよく出来た子だと微笑む。周りの大人が言うのとは、違って聞こえていた。俺は姉のような人間になりたいと、幼いながらも真っ直ぐな憧れを抱いていたのだ。その為に、俺は姉の言うことは特によく聞いたし、何でも姉と同じにしたかった。姉さん姉さんと、時にしつこいくらい後についてまわった俺を、いつも優しく見つめてくれていた。ちょうど今の俺と同じ歳くらいには、いい加減うっとうしいと感じていただろうに、何も言わず。ただ、微笑んでいた。


姉さん、俺がうっとうしいと思ったことがあるだろう」

確信を持って言った俺に姉さんは一瞬驚いてみせたが、湯飲みを手にすると、ふふふ、と声を上げた。

「俺は何かおかしいことを言いましたか?」
「違うわ。…いえ、そうね、そうだわ。急にあなたがそんなおかしなことを聞くから」

姉さんは口許に手をやって、また、ふふふ、と笑う。
居心地悪くなって、いくらかぬるくなった茶を口に含んだ。

「そうねえ、」

つまりは、俺を煩わしく思ったことがあるわけか、やはり。

流石にもう昔のようにひっついてはいないが、俺は今でも姉を心から慕っているわけだから、その反応はいくらか衝撃だった。記憶を探るような上目遣いでそう言った姉さんは、しばらくして思い立ったように、あぁ、と呟いた。

「なんです」
「ほら、むかぁし欲しがったことがあったでしょ」

言われてすぐには、何のことだかさっぱり分からなかった。
第一、俺は自制のきかない子供の頃にすら物を欲しいと思うことがあまりなかったし、俺が欲しいと思う物は大概「必要だから」欲しい物だった。

「……覚えがないな、」


言いながらも、過去を振り返ってみる。

振り返れば振り返るほど、俺の傍には姉さんがいた。
まぁつまり、それだけ俺が姉さんから離れなかったということなんだが。
姉さんがからかうように、俺をちらりと一瞥した。




「いやだわ蓮二、あなたアレが欲しいって泣いたのよ」




それを聞いて、やっと思い当たる。


「……あぁ、なるほど、思い出しました」

そうか、あれか。ふと、唇が笑いまじりの吐息を零す。
あれはきっと、俺が必要以外の何かを欲した初めてだった。

「あの時はねえ、流石に私も困ってしまったわ」

姉さんはすぅっと目を細め、唇で緩やかな弧を描いた。

「でも、あなたがあんなに物を欲しがったのは初めてだから、なんとかしたかった。
…でも変ね、他人の物を欲しがるような子じゃなかったのに。
あなた、何故あんなにアレにこだわったの?」

そんなことは、知っているに違いなかった。しかし、姉さんは俺の言葉を待つように、にこにこと笑顔を浮かべている。俺の手本であるこの人に、勝てる方法はないかと考えたが、どれも勝率は確実に0パーセントだった。仕方なしに、俺は口を開く。こんなことなら、茶を一緒にどうですか、などと言わなければよかった。

「……幼心にも、姉さんを盗られると、そう思ったからでしょう」


あの頃―――姉さんが今の俺と同い歳だった、今から六年前。姉さんには、付き合っている男がいた。今となっては顔すら思い出せないが、当時の俺にとっては、その男の存在はとても恐ろしかった。初めて姉さんが奴を家に連れてきた時など、一週間は寝ても覚めてもそのことばかりを考えていた。俺の我儘を全て叶えてくれる、素晴らしい姉。何でも知っている、賢い姉。何でも出来る、器用な姉。その姉の名前を馴々しくも呼び捨てるのが、気に入らなかった。けれど姉さんは、それまでに男を家に上げたことなど一度だってなかったのだ。恋だの何だのというのにはまだ疎かったが、それでも奴はあの姉の特別なのだと思った。ただならぬ危機感があった。よくよく考えてみれば、奴の前にも恋人がいたかもしれなかったし、奴も、いたかもしれない奴の前の恋人も俺がいない時に家に上がっていたかもしれない。けれど、あの頃の俺には、まず目の前にいる奴だった。

「おー、お前かぁ、の弟って」

いくら俺の方が年下だからって、初対面の人間になんて礼のない挨拶をするんだろうか。とても姉さんが選んだ男だとは思えないし、何より姉さんに選ばれたことがどんなことかをこの男は分かっていない。最初に話しかけられた時、生意気にもそんなことを思った。

「名前、なんつーんだっけ?」

姉さんはこの時、茶を用意する為に席を外していた。

「……俺に名前を聞く前に、あなたが名乗るのが筋なのでは?」

一刻も早く戻ってきた欲しかった。奴と同じ空間に居るのは苦痛だった。俺も大概な態度で、憮然と言い放った。六つも下の子供にそんな口を聞かれても、奴は機嫌を損ねたりせず、「から聞いてた通り、お前賢いな」と言って笑っていた。どんな笑顔であったかは思い出せないが、その瞬間俺はとんでもなく恥ずかしい思いをさせられたと思ったのは確かだ。奴のその態度に、大人だと、思ってしまったのだ。俺は完全にムキになり、何があっても絶対に自分の部屋へ引っ込んだりはしないと強く思った。それからすぐに姉さんが茶と菓子を持って戻ってくると、俺は心底安心した。茶も菓子も、それぞれ三つ用意してあった。

「なぁ、コイツほんと賢いな。ビックリしたぜ」

そう言いながら奴は、姉さんからさり気なく盆を取り上げると、やはりそのままさり気なく、テーブルの上へと置いた。

「ふふ、そうでしょ。蓮二は本当によく出来た子よ」

姉さんのその言葉に、俺はひどく安心した。そして奴をちらりと窺う。

「おー、蓮二っていうのか。いい名前だな」

奴はそう言って笑った。なんだか悔しかった。


「それだからって、あの人のピアスをもらってどうするつもりだったの?」


ハッとすると、あの頃より髪が伸び、大人の顔つきになった姉さんが、柔らかく微笑んでいた。

「今だって開いてないでしょ?ピアス。なのにあの頃のあなた、今にも泣き出すんじゃないかと思うくらい必死にねだっていたわ。私はその理由が知りたいのよ」

「だから、俺は姉さんを盗られると思ってたんですよ」

「だからどうしてピアスなの」

理由は簡単だ。光の加減で白っぽくも見える、なんの飾り気もない淡い紫の石だけのピアス。見た瞬間、姉さんが選んだ物だとすぐに分かった。あの男は、ああいう美しさの分かるような人間ではなかった。と思う。けれど、奴はそれをとても大事にしていた。時折、耳に手をやっていた。何かを確認するように。あれは無意識の仕草だった。俺なんかは到底入り込めない絆があるように感じられて、初めて地団駄を踏みたい気持ちというのを味わった。だから、欲しかったのだ。姉さんに置いていかれたくなかったし、それが無理ならせめて、仲間外れにはしないでほしかった。

「……つまらないことですよ。それより、もう来る頃なんじゃないか?義兄さん」
「あら、もうそんな時間?」
「出迎えてあげたらどうです?海を越えての再会なんだから」
「やだわ、おおげさに。たったの一ヶ月よ?留学だなんて言って、ただの旅行みたいなものよ」

そう言いながら立ち上がって、姉さんはいそいそ部屋を出て行った。


顔を忘れたなんて大嘘の強がりだ。


忘れようはずもない。あんなに大事そうにしていたピアスを簡単に俺に与えたあの男は、今俺の義兄に当たる姉さんの夫だ。忘れようはずもない。お互い大学四年の二人は、学生夫婦、というやつなわけである。とは言っても、式はまだだが。入籍は済んでいるのだが、式は義兄が短期留学から戻ってきてから、ということになっていたのだ。先月から、義兄が戻るまで一時的に実家へ帰っていた姉は、今日帰国し、もうじきここへやってくる夫と共にマンションに戻る。式は、いよいよ来週だ。俺は立ち上がり戸棚の前に立つと、その戸をそっと開け、奥から小さな桐箱を取り出した。中を開ける。やはり、白っぽく光っていた。義兄さんがここへ来たら、これを返そう。あの人は、俺を仲間外れにしようとしたりせず、対等なところで俺に接してくれたのだ。俺も、家族として対等に接しなければ。もう、これがなくても大丈夫だ。桐箱に蓋をし、ジーンズのポケットに押し込めた。

姉さんはどこにもいかないし、義兄さんだって一緒なのだ。

「ごめんくださーい!俺っスー、戻りましたー」という声が玄関から聞こえてくると、姉さんが出迎えたのか、「あぁー!っ、あいたかったー!」というはしゃいだ声。義兄さんの姿が、よく思い浮かぶ。


「……行くか」



まずお帰りなさいと言い、それから―――廊下を歩きながら、俺は口元を緩めた。
連理の陽