「姉貴、」 俺が声をかけると、その清らかさに相応しい、真っ白のドレスに身を包んだひとは、ゆっくりと振り返った。そして、俺を優しく見つめて、微笑む。いとしい、いとしい、俺の、たった一人の姉。俺だけを大事だと言って、慈しみ、惜しみない愛情を注いでくれたこの人は、いつから、俺でない男をあいするようになったのだろう。皆が皆、今日をよき日だと言うけれど、俺には到底そうは思えなかった。俺と比べたら、どんなやつの想いだって、軽微なものだ。俺は、この人を幸せに出来る自信もあるし、何より、この人だって俺をあいしている。それなのに、どうして今日この日をよいものだなどと言えるだろう。けれど、今ここで俺が何と言おうと、何をしようと、どうにかなる話ではない。何故なら、俺はこの美しいひとのたった一人の弟で、彼女は、俺が大っ嫌いなあの男を、心底愛しているのだ。穢れない、うつくしいひと。春の柔らかい風のようで、夏の激しい太陽のようで、秋の物静かな月のようで、冬の清浄な空のようなひと。 今日、俺が自分の命よりも大事だと思っていた女性(ひと)は、他の男のものになる。 「……綺麗だよ、ほんとう、きれいだ」 「ありがとう、嬉しいわ」 「……、本当に、お嫁にいっちゃうんだね」 「何も今生の別れじゃあるまいし、」 「同じことだよ。……あの人は、もう俺の姉貴を返しちゃくれない」 「結婚をしたって、あなただけの姉よ。あなたがかわいい弟であることは変わらないわ」 それも、どうだか知れない。このひとは、自分がどれほど罪作りな女であるのか、知らないのだ。あの男はとても嫉妬深くて、醜いくらいの執着心を持っている。きっと今だって、この部屋には遠い別室の中、苛立ちを抑えきれず、その辺にいる人間にくだらない八当たりをしているに違いないのだ。俺がこの人に、自分に都合の悪いいらぬことを吹き込んじゃいやしないかと、はらはらしながら。俺がこの人を、さらってしまいやしないかと。出来ることならそうでもして、何が何でもあんな男のところへなんかやりたくないけれど、実際そうは出来ない。この人が、あの男を愛しているからだ。この人のことだ。あの男のしてきたことなんか、全部知ってるに決まっている。それでも、愛してると言ったのだ。この、俺に向かって。だから、あと数時間で俺だけのひとでなくなってしまうというのに、俺はその瞬間までひたすら我慢しなくてはいけないし、その瞬間には、ただ指をくわえて見ているしかないのだ。こんなにも悔しいことって、他にあるだろうか。俺には世界の滅亡よりも余程かなしいことに思えるから、精々あの男も、俺にとっては忌々しいだけのその瞬間まで、無駄な焦燥に身を捩っていればいい。俺からこの人を奪うということは、そういうことなのだ。 「……姉貴は、いつだって俺の我儘をきいてくれたのに、」 「なぁに、急に」 「だってそうだろう」 「そうねえ、今回ばかりは、」 「どうしてあの人を選んだの」 「結婚の相手だもの、彼を愛してるからよ」 「……あの人、乱暴じゃないか。姉貴は、ああいう人は選ばないと思ってた」 「不器用なのよ。……綱吉、あの人のことを悪く言わないで」 「………別に、悪く言ったつもりはないよ。だって、俺の義兄さんになる人だ」 そんなこと、これっぽっちも思っちゃいないし、この人も俺の気持ちは重々承知しているはずだ。けれど、追及したらいけないと、分かっているのだ。俺の、たったひとりの姉だから。今にも、こんな馬鹿げた結婚は取り止めだ!と叫び出し、自分を攫っていってしまうだろうことを。諦めたような顔をして、理性ではきちんと分かっているくせに、本能は認めやしない。姉貴はいつだって、落ちこぼれのどうしようもない弟である俺をかわいがってくれて、俺自身でさえ否定していた俺の存在を認めて、大事だと言って抱き締めて、あいしてくれたのだ。俺と違って何でも完璧にこなしてしまう、すばらしいひとが!俺はたったひとりのかわいい弟で、決してダメなんかじゃない優しい子だと、頭を撫でてくれたのだ。そんなひとが、俺だけのひとでなくなってしまって、それどころか、他の男だけのものになってしまうだなんて、耐えられるわけがないのだ。だって、姉貴は今まで俺だけのものだったのだ!このひとを困らせてしまうのも、悲しませてしまうのも分かっていても、こどもの頃のように、駄々をこねてあまえていたい。そして、仕方ない子ね、と言って、いつものように俺をあいしてほしい。もう、いつものように、なんて言えないことは分かっているのだけれど。 「確かに、私という女は今日、あの人だけのものになってしまうけれどね、綱吉。 私という姉は、いつまで経っても、たとえ死んでしまったのちも、あなたの姉よ」 |