なんて悲しい、あいのうた。


何事かを喚き散らす声がしたかと思えば、それと同じ声が今度は泣き出す。目の前のこのドアの向こうで、今あの人は何を思い、感じ、かなしんでいるのだろう。考えてみようと思ったけれど、それより、自分の身体を傷つけたり、心を痛めつけるようなことを、していないだろうかと気になって、思考はうまくまとまらなかった。あぁ、こんなに静かな夜なのに、あの人の心は何故、嵐の海みたく、冷たい雨風と共に波立って、荒れてしまっているのだろう。常に心穏やかなあの人を、何が変えてしまったのか。しかしわたしがここで、そう考えても、やはりあの人を傷つけるものの正体は、あの人しか知らない。ただ、あの人は、無事なのだろうか。身体と、心と、魂と。どの部分に傷がついてしまっても、もう元には戻せない。チョコレート色の大きな扉の表面、上等な革にそっと指先を滑らせて、そのまま鼻先を扉に触れさせて、キスをする。どうか、この気持ちが、きこえてほしい。


「……奥様、お部屋へ」
「ここにいるわ」
「いえ、お部屋へ」
「いやよ、あの人がここにいるんだもの、ここにいるわ」


こうしている間に、今この時、そう思っているその瞬間の中、刹那で、あの人は傷ついている。それを知っていて、見て見ぬ振りなんて、出来るわけがない。わたしに何が出来なくとも、あの人のやさしいえがおをもう一度見るまで、ここから動けない。悲痛な、叫び。革のにおいに、鼻をすんと鳴らす。キスを、繰り返す。キスを。キスを。キスを。掠れた声の呟きは、意味を拾えた。みんな、嫌いだ。うそつき、その反対のくせに。お腹の底がきゅんとして、わたしは革張りの立派な扉に舌を這わせる。暗い、夜。静かな闇の中に、あの人の啜り泣きだけが大きい。えんえんと泣く、こども。月明かりが照らすステンドグラスに反射する、色取り取りの光。それらにまた照らされて、わたしの舌がなぞった扉の上質な革は、下品にてらてらと妖しく光っている。


「……奥様、お部屋へ。中にはリボーンさんがいらっしゃいます。十代目なら心配ありません」
「いやよ、いや、だってあの男に何ができるの、つなよしは、あたしのキスがほしいのよ、」
「奥様……、どうか、お部屋へ」
「いやだと言ってるでしょ。だって直に、あの人わたしを呼ぶわ。泣いて、あいしてるからって」


扉にキス、そして背を向けると、一歩、一歩、チョコレートから離れていく。さぁ、三つ数えて。ワン、トゥー、スリー。




「っ、ふ、ああ、、ぅ、うぅ、、おねがいだよ、あいしてる、あいしてるからっ、」




ほらね、いったでしょう。ぴたりと足を止めて、ゆっくり振り返る。ぐしゃぐしゃの泣き顔に微笑むと、あの人はその場に蹲って、声を上げて泣いた。わあわあと、ぼろぼろ涙をこぼして、心を砕いて。わたしもあいしてる。手を広げてやれば、赤青緑、きらきら光るチョコレートを背景にして、あの人はすぐさまわたしの腕の中へ飛び込んできた。「っ十代目ッ、」「ちっ、おい獄寺、人を呼んでこい。こうなると手に負えねェ」「っはい!」そんなやり取りをはっきり聞いて、くすりと笑う。十年も付き従ってきた右腕も、十年も側に張り付いてた家庭教師も、なんの役にも立たないじゃない。誰も、この人の苦しみを分かってあげられない。誰も、このひとがどんなことに苦しんでいるのか、知らない。それは勿論わたしにも言えることなのだけれど、わたしは違う。だって、


「てのひら、切れてるわ」
「っ、ふ、……っおれ、おれ、」
「痛いでしょうに。それに、何かわるいものがはいったら、大変。ね、手当てしてもらいましょ」
「っ、い、やだ、誰にもあいたくないっ、だれにもっ、みんな……っいやだ、」


わたしの腕の中で、それしか知らないみたいに、ただただ泣いて、縋ってくる。かわいそう。こうすることでしか、自分の心の奥に常にある罪悪感を、どうにも出来ない。彼の肩越しに、無能な家庭教師の苦い顔を見る。ちいさく、やめろ、と言っているのが分かった。やめろ。やめろ、これ以上かき回すな。そうね、わたしがこうしてかわいそうなこの人を抱き締めてあげる度、この人、だめになっていっちゃうものね。でも、それで構わないって思ってるのは、わたしではなく、この人自身だ。きらきら光るチョコレートのある一点が、妖しく光っている。それで、いいのだ。わたしの背中に爪を立てるこの人が、抱える闇。解放されることなど、未来永劫、ないのだから。


「大丈夫よ、わたしがずぅっと、つなよしといっしょにいてあげる」
「、ほ、んとう、に、」
「もちろん。ずぅっとずぅっと、いっしょにいてあげるわ」




それこそ、あなたがしんでしまったとしても、その骸を抱いてね




(あなたが無邪気に笑わなくなって、私も笑うことをやめた)
(あなたが精神を病んでしまってから、私も少しずつ、変わっていった)
(あなたが人生を嘆くようになってから、わたしは、)






ねえ、わたしあなたとなら、いつ死んでしまってもいいと思ってるのよ


沢田綱吉が、れる